<異変>

それから数日後…

昨晩泊まっていったティムを玄関まで見送り、ディックは食堂に戻ってきた。ブルースはテーブルに肘を突き、スープ皿を見詰めていた。1時間前に食べ始めた朝食は殆ど減っていなかった。
ディックは向かいに座りコーヒーを飲み始めた。彼の食事もまた一つも減っていなかった。ここのところずっと食欲がなかったからだ。元々細身の筋肉質ではあったが、更に細くなった兄を心配し、以前ジェイソンがプロテインを買ってきていた。
「ブルース、プロテイン入りのコーヒー飲んでみる?まずいよ」
ディックが笑い掛けたがブルースからの返答はなかった。ディックは顔を曇らせた。

施設から連れ戻して以来、ブルースは一切喋らなくなった。悲鳴のような声を上げることも、唸り声を上げることすらも。表情の変化も乏しくなり、明らかに以前のブルースとは一線をかいていた。施設で受けた扱いと、ディックに見放されたという事がブルースの心を壊していた。
今や、目の前に存在しているのにまるで別世界の住民のようなブルースの雰囲気に、どう接すれば良いのかディックは戸惑っていた。

その時、ブルースの手からスプーンが離れた。机の上で1秒ほど踊ったスプーンは、弾けて地べたに落ちた。
今までのディックであれば溜息をつき乱暴に拾い上げるか「食べないのなら部屋に戻れ」と言っていた所だったが、彼は静かにそれを拾うと自分のまだ使っていないスプーンを手渡した。けれども、ブルースの焦点はスープ皿の斜め上を見たままでディックの差し出したスプーンどころか、ディックの存在すらも認知していなかった。
ディックはスープをひと匙すくうとブルースの唇に当てた。おそらく顔を背けるか、手を叩き落とすかだろうと予想したが、意外にもブルースは口を開いた。だが、薄らと開けたそこにスプーンが入るより先に、唾液混じりのスープがダラダラと零れ出てきた。いつから溜めこんでいたのか…、思わずディックが溜め息をつくと、途端ブルースが身震いし、怯えたような眼でディックを見た。
「あっ……ごめん…違うんだ。癖で…。スープ、美味しくなかったね。もういらないなら下げるよ」
視線を下げて黙ってしまったブルースを見つめ、ディックはそれを肯定と受け取り皿を下げた。

キッチンから戻ってきたディックが目にしたのは、机に突っ伏しているブルースだった。
「ブルース、寝るなら部屋に戻るか、リビングのソファに……なぁ、聞いてる?」
揺さぶっても全く動こうとしないブルースの上体を無理やり起こすと、彼は虚ろな目を薄らと開け、宙を見ていた。ディックは何かに気付いた。
「……顔、紅い?」
額に手を当てると、確実に熱を孕んでいた。

自力で歩けなくなったブルースをベッドに寝かせ、ディックはハンディスキャンで内臓の画像データを撮り、血液も採取すると検査機にかけに行った。

一人残された部屋でブルースは絶え絶えに息を吐いていた。彼の四肢は鉛で固められたように重く、自分の意思では思う様に動かせなかった。眩暈は目を閉じても変わらず、渦の中に放られたような感覚がした。熱を抱え込んだ身体からはじわじわとしか汗が出ず、内に籠ったまま発散できない苦しさと気持ち悪さが内臓を駆け巡っていた。
途端、胃が内転するかのような痛みが走り、ブルースはえづいた。首だけを必死に横に向け、込み上げたものを口から出した。それは唾液と胃液の混ざったもので、その苦味のあるまずさにブルースは強くむせた。
ベッドのスプリングが軋むほどムセ返ると、下半身にじわりと熱く濡れる感覚があった。思考が回らない頭でも、自分のしてしまった事が理解できた。頭にすぐさま浮かんだのは、溜息をつくディックの顔だった。もっと嫌われる。熱を忘れる程の寒気がした。
片付けをしないといけないという考えが湧き、無我夢中で上体を起こそうとしているブルースの元に、ディックが点滴を持って戻ってきた。ディックはブルースが身体を起こそうとしている事に気が付くと、水でも飲みたいのかと身体を起こす手伝いをした。背中に触れられた手の感覚と、下腹部に感じる濡れた感覚に、現状を突きつけられブルースの胃がストレスから収縮した。次の瞬間、ブルースは唾液混じりの胃液を吐いた。目の前がちかちかと点滅し、酷い眩暈がした。
“また棄てられる”
頭と胃の異常な痛みよりもその考えが思考を占めた。ディックが何かを喋っているのがわかったが、ブルースはタラリと垂れていく自分の涎ばかりが気になった。汚ないと罵る男達の声と、嫌悪に顔を歪める記憶の中のディックの顔がリンクした。どうしようという混乱と、どうなるのだろうという不安が頭を巡った。

スキャン映像では内臓に異常はなかったが、血液データから急激な免疫低下が見つかっていた。エイズが発症したわけではなかったが、このまま免疫力が低下しスイッチが入ってしまえば発症してしまう可能性があった。
施設にいる間、あれだけの暴力とレイプを振るわれ、加害者以外からは無関心な対応をされていた事を考えれば、服薬を守ってもらえなかった事は明白だった。事実、入所時に病院へ渡した抗HIV薬は、高値のため裏ルートを通して売られていた。
自分のした選択に、今になってディックは激しく後悔し始めていた。
「大丈夫だからね、大丈夫」
ディックはブルースを横たえると、汗で湿った頭を撫でた。ディックは嘔吐物で汚れた布団を取り払いブルースが失禁していたことに気が付いた。こんな辱めまでさせてしまった自分が憎く思えた。

ブルースの服を脱がせば、蝙蝠時代の傷痕や臓器売買の瘢痕の他に、真新しい痣が痛々しく浮かんでいた。助けた時には暗く気が付かなかったが、改めて見る現状にディックは息を飲んだ。
サンドバックとして遊ばれたブルースの全身は酷い内出血を起こしていた。血管が脆くなり出血しやすい上、血を止める血小板も少なくなっていたからだった。

下肢を拭き終えると、ベッドを替えるためディックの自室へと移動させた。新しい服を着させようとして、ディックは手を止めた。今の状態ではトイレに連れていくのは困難であり、尿器を使うにしても意織が伴わなければ使えない。
過去のバットマン活動で、昏睡に陥ったブルースが数日間寝たきりになったことがあった。その際、アルフレッドが全て面倒を見ていたため、具体的に彼がどのような対応をされていたかは知らなかったが、生活用品を置いている備品倉庫の隅に大人用のオムツが置いてあることを幼き頃からディックは知っていた。彼は倉庫に駆けた。

ブルースがおかしくなってから、ディックが彼の着替えを手伝う事は幾度かあった。最初の内は恥ずかしさがあったが、段々と慣れ最近では何も感じなくなっていたのだが、下着を履かせるのとオムツとではこんなにも違いがあるのだと彼は思った。戸惑っているディックとは変わって、ブルースは熱に浮かされたぼんやりとした面持ちで、されるがままに膝を立て開脚していた。
「少し腰浮かせて」
ディックの言葉にブルースは素直に従った。それは甘えではなく服従だった。逆らえば痛い目をみると刷り込まれた事による条件反射だった。服を着せ終えしばらくすると、ブルースが小さな寝息を立て始めた。
紅みの治まったブルースの頬を撫でていると、ディックの視界が急に滲んだ。彼はベッドに顔だけ突っ伏すと、嗚咽を噛み殺した。


<笑顔>
受話器を持つディックの手は震えていた。

「……もしもし、アルフ…元気?」
『えぇお陰さまで。リチャード様は?』
「………」
『どうかなさいましたか?』
「ご……ごめん…、アルフレッド…っごめん…」

ディックは泣きながら今までの経緯を全て話した。苛立った自分がブルースにしてきた言動、施設に送ってしまったこと、そこで起きた悲惨な出来事、そして…

「今回の事で、ブルース…薬…しばらく飲んで無かった…どうしよう…ブルースが死んだら…僕のせいだ…っ、僕のせいでブルースが死ぬ…っ、どうしよう…どうしよう、」
『リチャード様』
「僕がブルースを殺した…っ、うぅ、僕がっ」
『リチャード様!!』
ディックは我に返った。
『大丈夫ですよ。もし免疫が出来てしまっていたら、投薬種類を変えましょう。ただ、それだけのことです。大丈夫ですよ、ブルース様は大丈夫。貴方が、ティム様が、ジェイソン様が、ダミアン様が、そして私が、支えればいいだけのことです。落ちついて下さい』
「アルフ…っ」
『そしてリチャード様、貴方にも支えは必要です。貴方を心配する人達の声に耳を傾けて下さい。心を閉ざさないで下さい。貴方の素晴らしい笑顔を無くさないで下さい』

その夜、ティムはゴッサム警備に行く前に屋敷に訪れた。彼はディックから事の次第を聞きながら、眠っているブルースを眺めていた。
「熱は落ちついて、嘔吐ももうない。時折目は覚めるけど、ぼうっとしてて…すぐに眠りにつく状態」
「一先ず落ちついたようで良かったよ。ディックも顔色酷いけど、大丈夫?」
「あぁ…平気」
ティムは顔をしかめ、その言葉を信じていないというアピールをした。
「アルフと話した」
「そう」
「ティム聞いて……僕…ブルースを殴った奴等の気持ち…わかるんだ…。そりゃあ、あんなの最低で最悪で、それはわかってるけど……っ、でも……どうしようもなくっブルースに苛立ったんだよ、だから…っ、」
「うん」
「一杯傷つけた!!!暴言だって吐いた!!…っ暴力だって!!あそこに放り入れたのも僕だ!!こうなることが予想できなかったわけじゃない!」
「うん」
「今回のせいで、ブルースの寿命が縮まったかも知れないっ!命に関わることをしたっ」
「うん」
「死んじゃうかもしれない!!」
「うん」
「なんで…?なんで…みんな怒らないんだっ!もっと責めてくれよ!!」
「僕に責める権利はないよ。それはブルースにしかない」
「っ」
「でもブルースはディックを責めてないでしょ。ブルースはあの時、ディックにしがみ付いてたでしょ。ブルースは…」
ティムが言い淀んだ。
「ブルースが腕を噛むのも、ディックの顔色を窺うのも…ディックに嫌われたくなかったからだ。ディックがブルースを愛してるのと同じように、彼もディックを愛してるよ」
「…そんなの、わからない。僕を憎んでるかもしれないだろっ!それに…自分が…ブルースを、愛してるかも…もうわからないんだ…っ」
「“死んじゃうかもしれない”ってさっき言ってたけど、死なせないでしょ?!死なせないために…ブルースを生かすために、今まで懸命にもがいてきたんだろ!愛してなきゃ、こんなこと出来ないよ!ねぇ、ディック。違う?」
「……わから」
「わかるよ!!僕も二人を愛してるから!こんなに苦しいのはね、みんなが愛し合ってるからだよ。それなのに…うまくいかないなんて、本当おかしいよね」
ティムは鼻をすすると、はにかむような笑顔を浮かべた。
「ディック、笑ってよ」


<服従>

ブルースの体調が万全になるまで、ディックは自分の部屋で彼を看病し、ディック自身はソファで眠るという日々を過ごしていた。
高熱を出し、魘されているブルースが口にする言葉の多くは「マム…」「ダディ…」というもので、それはディックが駒鳥時代にも聞いた事があるものだった。
両親が殺される夢を見て魘されているだけならまだいいとディックは思えた。恐ろしいのはその二人がブルースを迎えに来る事だった。死の世界へと連れて行かないでくれと祈った。こんな辛い思いをさせたままブルースを亡くすのかと想像すれば、ディックは気が狂いそうだった。
魘され涙を流すブルースの眼元を拭い、骨張った手を握り「ごめん」と何百回も唱えた。

薬を飲んでいなかった事による免疫の低下だけでなく、劣悪な環境での生活と、暴力による身体的損傷も今回の症状に繋がっていたが、幸い今回は点滴と服薬だけでブルースの症状は快方に向かい、免疫の数値も元に戻った。薬だけでなくディックの献身的な看護のおかげでもあった。

ほどなくしてブルースはよろけながらも歩ける程度に回復した。手を繋ぎトイレに行けるようになり、清拭ではなく浴室で身体を洗えるようになった。食事も少しずつ食べれる様になった。その間ブルースは驚くほどに従順だった。そして、ほんの少しでも粗相をしてしまうと、怯えたようにディックを見るようになった。ディックの反応を、息を潜めている待っている様は、判決を待つ被告人のようだった。そんなブルースの様子にディックは戸惑った。以前のように反抗する素振りを見せないブルースは、更にブルースらしさを失ったようにも見えた。
複雑そうな表情を浮かべ、怒りも笑いもしないディックを前にして、ブルースは自分の態度が不正解だったと思いこみ、彼が立ち去ったあとに静かにパニック発作を起こすことが度々あった。棄てられることに過剰に怯えるようになったブルースにとって毎日が不安の中にあった。


<報道>

その頃、世間はとあるニュースで持ち切りだった。施設の男達が死んだのだ。数発の銃弾を身に受けて。数ヶ所は性器に、そしてトドメは眉間に。
その猟奇的な殺害方法と、見付からない犯人への恐怖。そして、どこからかのリークによって判明した施設の忌々しき実態。死んだ被害者達が実は加害者であったということ……。
連続するスキャンダラスな出来事は、瞬く間に全米中を駆け巡り、大々的にテレビに取り上げられた。それを観て、ディックもティムも犯人が誰かわかったが互いに何も言わなかった。
ディックがブルースの様子を見に席を外して一分も経たないうちに、ティムの横に座った人物がいた。
「よぉ」
「…くれぐれも捕まらないでよ」
ジェイソンは鼻で笑った。
「お前もうまくいったのか?」
「もちろん。ただ…送った資料を警察がどれだけ有用に活用できるかはわからないけどね。取り合えずあの施設は廃業だ」
「……あいつは?さっき見たら寝てたけど」
「体調は戻ってきたんだけど…さっきパニックを起こしたから麻酔で寝かせたんだ」
「パニック?」
「うん…またどこかに放られると思ってるみたいで、基本は大人しくしてるんだけど…」
「暴れんのか?」
「ううん、逆。どっちかっていうと外じゃなく内に発散するようになった。腕を噛んだり、首を絞めたり。それが行き過ぎて気絶することも。パニックってのも暴れるんじゃなくて自分を過度に傷つけ始めたから麻酔で眠らせたんだ。でも、それじゃ根本の解決にならない…ブルースの不安を取り除いてあげない限りは」
「そんなの出来るのかよ」
「ディックになら出来ると思う。僕はそう信じてる。どう思う?」
「あぁ…俺も、そう思うぜ」


<懺悔>

「ブルース、お風呂に行くよ」
ブルースは目を通していた本を横に投げると、差し出されているディックの手をすぐさま握った。以前ならば無視か払い除けていたのだが、事件以降からは必死さをも感じるほど従順だった。
ドレッシングルームに辿り着くとディックはタオルを渡した。
「今日から一人で入れるね?」
その問い掛けにブルースは数秒黙ったあと頷いた。ディックが出ていくのをブルースは何か言いたげに見ていたが、青年はそれに気が付くことなく出て行ってしまった。
どうにか一人で入浴を終えた頃には一時間が経過していた。
疲れ切った状態でバスルームから出てきたブルースは、待っていたディックに腕を引かれ自室に連れて行かれた。久し振りに見た自分のベッドに座らされると、ディックはブルースの肩に手を置き諭す様に声をかけた。
「一人で寝れるね?」
ブルースの瞳が揺らいだ。彼は先ほどよりも長い時間黙った後、頷いた。

その晩、ブルースはベッドの中で過呼吸に陥った。
広い部屋で一人。眠れない夜の暗闇が重力のように体に圧し掛かってきたのだ。死ぬ間際の虫のように足をばたつかせ、喉を掻きむしった。
「はぁ、…はぁ、っはぁ、あっ…」
まとわりつく布団が、何百キロもの重さに感じた。手足を誰かに押さえ付けられ、暴かれ…穢される。助けはない。逃げる場所もない。もがき、苦しみ、それでも死ねない。ブルースは息を詰まらせ涙を流しながら苦しんだ。
その時、滲んだ視界に映っている扉がゆっくりと開いた。ディックがブルースの様子を見にきたのだった。
「…ブルース?」
異変にすぐさま気が付いたディックは、ブルースに駆け寄ると抱き起した。
「大丈夫!?ブルースっ、落ち着いて!」
「ぁ、はぁっ、はっ、はっ、っっ」
必死にしがみついてくるブルースを抱き締め、ディックはその背中を擦った。触れている胸を通して感じるブルースの心拍は異常なほど早かった。
ディックは自身の胸にブルースの顔を押し当て、過呼吸による酸素過多にならないよう対応した。段々と落ち着いてきたのを見計らいディックはゆっくり身体を離したが、ブルースはそれを嫌がるように頭を振り、ディックにしがみ付いてきた。

ディックの胸の内は混沌としていた。こんなのはブルースじゃないと叫ぶ声と、こうさせたのは自分だと責める声、だがどちらも現状を見たくないと、逃げたいと訴えていることに変わりはなかった。現実逃避をするかのように意識が遠のきそうになった時だった。
「…す、…て…なぃ………で…っ」
ディックは我に返った。頭をコンクリートに打ちつけられたような衝撃だった。久し振りに聞いたブルースの言葉は、言わせてはいけないものだった。腕の中で震えているブルースを抱き締め、ディックは声を押し殺して泣いた。過去に戻れるのならば自分を殺してやりたいと思った。

いつしかブルースの呼吸は落ちつき、瞼は閉ざさっていた。
「ごめん…ごめんね…僕が守らなきゃいけなかったのに…こんなに…傷付けて…ごめんね…、ブルース…ごめん‥っ」
月夜に照らされた部屋に、懺悔の言葉が響いた。


<添寝>

ブルースのパニックを考慮し、ディックは身の回りの手伝いを継続し、就寝も同じ部屋ですることにした。ブルースの自室で寝るのはそのままに、この部屋でも彼はソファで眠ることにした。

その日は朝から冷たい雨が降っていた。夜中まで続いたその雨のせいで、気温はいつもよりも3度ほど低くなっていた。ディックは厚手のケットをブルースにかけた。
「おやすみ」
ブルースが口を開くことはなかったが、その目はじっとディックを見上げていた。ここ最近、感情の読めない瞳で見てくることが増えていた。丸々としたブルーカクテル色の瞳を見ていると、何だか後ろめたくなりディックは早々にソファに横になった。

しとしとと雨が降り続いていた。気温は更に下がり、ディックは寒気を感じたが、寝床から出て毛布をとりに行くのは面倒だった。身体をぎゅっと縮めていると、ブルースが起き上る気配がした。
ディックは薄らと目を開け、ブルースの行動を見守った。トイレに行くのか、それとも徘徊か。後者ならば厚手のガウンを羽織らせてやらないと…眠気の残る頭で算段を立てていると、ブルースが自身に掛かってたケットを持ち、そっとディックに近づいてきた。ディックは驚き、目を閉じ眠っているフリをした。
次の瞬間、若干の重みと暖かさに包まれた。そしてふわりとディックの髪が撫でられた。信じられない事態に、ディックの身体は固まっていた。薄らと目を開ければ、ブルースがベッドに戻っているところだった。ありがとうという言葉が喉から出そうになったが、ディックは飲み込んだ。震え出しそうな声は、きっと彼を驚かしてしまうと思ったからだ。熱くなる眼元を枕に押し付け、ディックは頬笑んだ。

朝方、目が覚めたディックはブルースの方を見た。彼はダミアンから貰った人形を抱き潰すように抱え、ベッドの中で身を丸くしていた。ディックは気が付いた。ケットを自分にかけてくれたという事はブルースは…。ディックは慌ててブルースを覗き込んだ。
「ブルース、寒くない?!」
すぐに目を開けたブルースは、口形を“さ む い”と動かした。
「ごめん!今、掛けるから」
ブルースはディックをじっと見詰めたあと、時計を見て再度ディックを見た。時刻は4時を少し過ぎた頃だった。ブルースが布団の端を持ち上げた。
「一緒に…寝ろってこと?」
驚きに固まっているディックの反応を、拒否と捉えたブルースは、顔を曇らせると布団を被り蹲ってしまった。「あっ…」ディックはどうしようもできず、そのまま早めに起床することを選んだのだが、その選択で良かったのかと日中ずっと悩んでいた。

その晩、ブルースは夜間に徘徊し出した。覚束無い足取りでの鬼ごっこは20分も経たずに終わりブルースは疲れ切りダミアンの部屋の前で座り込んでしまった。今までのディックであれば呆れて放っておいたのだが、今回はそうはしなかった。ディックはブルースの隣にしゃがみ込んだ。
「一緒に寝ようか」
その言葉に、ブルースは小さく頷き、手を握ってきた。
同じベッドで寝るのが気恥かしく、ディックは背を向ける形で横になった。ほぼ寝れなかったディックとは違い、ブルースは翌朝まで静かに眠っていた。その日以降、ディックは度々ブルースと共に寝るようになり、二週間後にはそれが習慣となった。


<襲撃>

ブルースを入浴させている最中のことだった。けたたましいサイレンが鳴り響いた。屋敷の警備システムが起動したのだ。
短パンTシャツ姿のディックは、すぐさまバスルームから飛び出ると辺りを伺った。まだ部屋に敵が侵入していないのを確認し、ディックはブルースを浴槽から出し、急いで体を拭き始めた。その時、開かれたドレッシングルームに影が通った。すでにタロンが迫ってきていた。

捕らえられた二人は後ろ手に縛られた状態で、4tトラックの荷台に連れ込まれた。ブルースは濡れた身体にタオルだけを巻いている状態であり寒さに震えていた。ディックは体温を分け与えるかのようにブルースに寄り添い、ブルースもまたディックに擦り寄っていた。
真っ暗だった荷台の電気が付くと、目の前に五人のタロンが立っていた。
「あぁ、逢いたかったよ…僕の可愛い兄さん」
粘ついた声を発しながら奥から現れた男を、ディックが鋭く睨み付けた。
「おい、あんた。ブルースが可愛いんだろ。このままじゃ風邪引くどころか低体温症になるぞ」
笑みを携えているリンカーンは目の前にしゃがむと、ブルースを自分の方に引き寄せ、首筋から下腹部にかけてなぞった。
「本当だ。兄さん冷たいね」
「ブルースに触るな!!」
「体、傷だらけだ。僕がつけた傷もある?」
どれかな?と言いながらリンカーンはブルースの幾つもの傷痕を弄った。
「っ……い、や」
「泣きそうな顔、初めて見たよ。可愛いね、天使みたいだ。他にはどんな顔ができるのかな?気持ちいい時のお顔は?」
リンカーンがタオルの隙間に手を差し入れた。ブルースは絶叫し身を捩った。
「それ以上彼に触るな!この変態野郎っ!」
リンカーンは冷めた目でディックを見た。
「黙らせろ」
タロンがすぐさまディックを殴り捩じ伏せた。それだけでは留まらず、タロンは膝をディックの背中に乗せると、体重をかけ始めた。
「っあ、ぐっ!」
ブルースはそれを見て、自分からリンカーンに身体を押し付けキスをした。リンカーンは驚きに見開いた眼を徐々に細めると、満足気に笑った。リンカーンが手を掲げると、ディックの上に乗っていたタロンが立ちあがり持ち場に戻った。
「兄さん、いい子だねぇ。可愛い息子を護りたいんだね。じゃあ、大事な弟の為には何をしてくれるのかな?」
リンカーンはタオルの中で、ブルースの内腿から股の付け根までを厭らしく撫で上げた。ブルースの瞳が一瞬動揺したが、何度か瞬きをした後、意を決したように股をリンカーンの手に押しつけた。
「なんて淫乱な人だ。じゃあ御望み通り、一緒にエッチなことしようか」
リンカーンはブルースの拘束を外し、少し離れた場所まで手を引くと、抵抗をしないブルースのタオルを剥ぎとり押し倒した。ディックが血走った眼で叫んだ。
「殺してやる!!!」
「はは、物騒だな。蝙蝠一家は殺さずが基本なんだろ。兄さんを悲しませる気かい?」
「あぁ!僕が悲しむよりマシだ!!ブルースに手を出したら殺してやるっ、絶対に殺してやるからな!!」
「明日にはお前もタロンになるんだ。精々今を楽しめ」


「っあ゛っ、ぁっ、ん゛っ、ぃ…っアっ…」
ブルースの押し殺した声、肉同士がぶつかり弾ける音、タイヤの走行音、そしてディックの怒りの籠る呻き声が荷台に響いていた。ディックは猿轡を噛まされ、タロンに身体を抑え込まれていた。
「美味しいよ、兄さんのここ」
リンカーンは結合部分を親指で押し広げながら、ブルースのアナルを犯していた。膝裏を掴まれ、大きく開脚させられた状態で、身体を押し潰す様にペニスをねじ込まれているブルースの表情は苦悶に満ちていた。
「近親相姦だなんて、父さんも母さんも驚くよね」
その言葉にブルースの顔が歪んだ。
リンカーンは一層ピストンを激しくすると、急に止まり、中に精を注ぎ込んだ。腹内で熱く広がっていく液体に、ブルースが気持ち悪そうに呻きをあげた。ぐったりとしたブルースを抱きしめながらリンカーンはうっとりと頬ずりをした。
「予想以上に仕上がってくれて嬉しいよ。2年も待ったんだ。これからはずっと一緒だよ」

“いま、なんていった?”

ディックの思考が一瞬停止した。
“こいつがブルースを誘拐して…横流ししたのか…?”
リンカーンは驚愕の目を向けているディックを見るとニマリと笑った。自分の考えが正解だということを知り、ディックの顔は見る間に憤怒に紅く染まった。

リンカーンは顔をブルースに戻すと、深い口づけを交わし自分の唾液をブルースの口に注ぎ込んだ。眉根を寄せ、口端から唾液を出そうとしているブルースの顎を強く掴み、リンカーンは「飲め」と命令した。ブルースが嫌そうに嚥下するのを見届け、リンカーンは満足気に頬笑んだ。
「あぁ、可愛い僕の兄さん。今度は上に乗ってもらおうかな。できるよね?」
ブルースは疲労により動き出す事が出来なかった。リンカーンが手を挙げると、タロンがディックを蹴りあげた。くぐもった呻き声が上がった。
ブルースは焦ったように身体を起こすと、今にも崩れ落ちそうな脆さでリンカーンの上に跨いだ。ブルースはリンカーンの勃起している図太いペニスを片手に持つと、もう片手で自身の双壁を広げながら腰をゆっくりと下ろした。アナルに亀頭が当たった瞬間、ブルースの腰が反射的に引けたが、リンカーンはブルースの腰を強く引き寄せ強引に挿入した。そしてブルースのペニスを強く引っ張った。
「い゛ッあ゛ぁあッッ」
衝撃と痛みで前屈みに崩れてきたブルースを抱き止め、リンカーンは下から何度も突き上げた。
「んっ、ア゛ァ!!!い゛っう、…ッ、あ゛、やぁ…ッ!!」
「気持ちいいかい?僕もだよ」
リンカーンの陰毛は、先程自分が出した精液と、ブルースの血液で湿りてらてらと照っていた。がくがくと揺さ振られ、目尻に涙を滲ませているブルースの様子に、ディックは奥歯を軋ませた。身体が心が、本気で目の前の男を殺したいと訴えていた。

最中に通信が入り、タロンは行為を続けているリンカーンの耳元に無線機を当てた。リンカーンは通信先の言葉に数回頷き返事をすると、ブルースを揺さぶるのを止め、キスをし愛おしそうに頭を撫でた。
「兄さん、ちょっと呼ばれてね。先に向こうで待っているからね」
その優し気な言葉とは裏腹に、リンカーンは突き飛ばす様にして乱暴にブルースを転がすと「少し遊べ」と言い残し、荷台の扉を開け、向かってきた別の車に飛び移った。


<反撃>

タロン達は命令に忠実だ。自身のペニスを擦り勃起させたタロンがブルースに覆い被さった。事務的に行われる行為は、終われば次へと交代していった。何の抵抗もしないブルースはまるでただの肉塊のようだった。疲弊し今にも瞼が閉ざさりそうな様子ながらも、意識が遠のくと腕を強く噛んで目を覚ましていた。なぜそうまでして耐えるのかディックには理解できず、逆に意識を失ってほしいと祈るような気持ちで見ていた。

そんなディックの視線に気が付いたのか、タロンはディックの方に近づくと、彼の衣服に手をかけた。タロンに性欲はないと思っていたディックは驚いた。反り返るほどに勃起している性器は、これからディックに何をしようとしているのかを物語っていた。
(ゲス野郎がー…)
この後に起こる事を予想し、ディックは唾を吐きかけたい気持ちになった。拘束が外された瞬間に反撃に出るか否か。もし失敗すれば命はないかもしれない。だが次期タロン候補であるならば免れる可能性もある。ブルースも“リンカーンの慰みモノ”になる予定ならば殺される可能性は低い。衣服を脱がされる中、そうディックが頭を巡らせている時だった。

突然、ブルースが唸り、自身を犯していた相手の首筋に噛みついた。
タロンは悲鳴もあげれずに倒れ、首筋からおびただしい量の血が床に広がっていった。ブルースは肉片を吐き出すと、ディックの前にいるタロンを睨みつけた。これにはタロン達だけでなく、ディックも驚き固まった。
タロン達はブルースを取り押さえようとしたがブルースは暴れ狂った。ディックをどうこうするなどという問題ではなかった。車中の空気は一転し、みな暴れるブルースを黙らせようと、レイプは暴力に変わった。すぐさまブルースは取り押さえられ、タロン達は容赦なく彼を殴り蹴った。ブルースから血が飛び、蹴飛ばされ宙に舞う手足は、人形のように力を失っていた。ディックの頭の中に“死”という文字がよぎり、彼はあらん限りの声で叫んだ。
「ンん゛ーーっ、ンン゛ーーー!!」
くぐもった声に含まれた制止の訴えは、怒りではなくもはや懇願だった。目の前の惨状と無力な自分に涙が溢れそうになった時……

ダダダダダダダダダダダッッッ!!!

銃声が鳴り響き、荷台の上方に幾つもの穴が空いた。途端、トラックがスピンしたのち急停車し、荷台の全員が体勢を崩し倒れた。
バリィという凄まじい音がし、天井がめくれた。頭上にバットジェットが浮かび、ワイヤーで天井が吊られていた。次の瞬間、頭上をバイクが飛び、ジェイソンがそこからタロンに向け銃を放った。臨戦に出遅れたタロン達はジェイソンの銃弾を浴び数人が地に張り付けとなった。自動操縦に切り替えたバットジェットからティムが飛び降りると、ディックの拘束を解いた。
そこからは駒鳥達の反撃だった。



拘束したタロン達をジェットに積み込むと、急速冷凍用の液体を体内に流し込んだ。
「これで完了。あとはブラックゲートの地下に運んで、研究用に保存しておこう」
ティムは機械の調整を終えると、ディックを見た。ディックはブルースを抱えたまま俯いていた。ブルースの意識は無く、ただ弱弱しく呼吸をしているだけだったが、幸いにも骨や内臓に大きな損傷は受けていなかった。
「おい、ディック…お前も休んだ方がいい。俺達がブルースを看るから」
「僕を……僕を守ろうとしてくれた…っ」
「するに決まってるよ。だってブルースなんだから」
ティムの言葉にディックが嗚咽を零した。少年の頃から今に至るまで、彼らを護ってくれていたのは目の前の人物だった。仲違をすることがあっても彼なりに自分達を大切に想ってくれていたことを、ここにいる誰しもが痛いほどに理解していた。
「なぁ……俺達もうロビンを卒業したんだよな?」
ジェイソンが唐突に口を開いた。
「だからさ…もう…“バットマン”じゃなくて、そろそろ“親父”を守る役割になるべきなんじゃねぇかな」
「ジェイ……」
「俺は…ガキの頃…親父を守れなかった…からっ、この人まで……失いたくないんだ…っ」
溢れ出した涙を手の甲で拭いながら、ジェイソンは「だせぇ」と自分自身の失態を悔しそうに呟いた。
「ジェイ、おいで」
言われるがままジェイソンがディックの元に近づくと、ディックは彼の頭を抱きかかえた。驚きに一瞬身を引こうとしたジェイソンだったが、思い留まると同じようにディックの頭を抱えた。

「ところで、このタロンだけど、こんなにいらないんだよね。必要分以外はバラそうと思うんだけど、どう思う?ちなみにブルースを虐めた奴はどれ?」
悪い顔をしているティムの提案に、ディックとジェイソンも同様の笑みを浮かべた。

結局のところ、死体は一体残らずミンチとなった。


<風邪>

打撲は酷かったものの骨折や内臓破裂は免れた為、ブルースは数日で大方回復した。
最近の彼は、薬への執着や要求がほぼ無くなり、離脱症状や幻覚症状も治まっていた。この数ヵ月、薬物を絶っていた効果がようやく現れたのだ。しかし一度薬物を覚えた脳は半永久的に戻らない。少しの刺激でフラッシュバックをする可能性はあった。そのため精神症状は治ったわけではなく、影を潜めたといったほうが正しかったが、それでもディックは嬉しかった。

二人の間に壁を隔てていた“薬物”が取り払われた事と、ようやくディックの中で今のブルースを受け入る事が出来たことで、ディックはブルースに対し穏やかに接する事ができるようになり、比例してブルースの不穏行動も減少していった。
それでもまだ理解ができないような行動をとる事があったり、言葉数の少なさは目立ったが、ディックが声を荒げることはなかった。



雨が降る中、“庭に出たい”と訴えるブルースをディックは説得することができず、仕方がなく共に散歩をした翌日の事だった。
「くちゅっ」
「え…まさかブルース風邪引いた?!」
こんな時に限って風邪薬のストックは尽きており、食料品も少なくなっていた。いつもであれば、定期的にティムが食料を買ってきてくれているのだが、ここ最近は仕事が忙しくなっており、満足に来る事が出来なくなっていた。
「買いに行かなきゃ……えーと、誰かにブルースのこと頼んで…ジェイソン大丈夫かな…連絡つけばいいけど…」
電話をかけようとしたディックの服をブルースが掴んだ。
「ブルースは寝てて。僕は買い物に行ってくるから」
再び電話を掛けようとしたディックの服を、ブルースが更に強く引っ張った。
「ま…まさか…一緒に来る…の?」
ブルースが頷いた。

カウンタックの助手席、毛布にくるまりブルースがうずくまっている。車を駐車場に止め、ディックは外からロックをすると、急いで買い物を終え戻ってきた。エンジンを掛けようとしたディックの袖を、ブルースがまたも引っ張った。
「…トイレ」
「えっ!?おしっこ!?わかった」
ディックはブルースに帽子とサングラスを掛けさせ、簡易的な変装をさせると、その手を引いて急いでトイレへ連れていき、念のため共に個室に入った。傍から見ればゲイカップルが慌ててトイレに駆け込んだ状況である。ディック達がトイレから出てくると、知らせをうけた警備員が待ち構えていた。
「あは、は……マジすか…」
ディックが困ったように笑う横で、ブルースがくしゃみをした。


<甘媚>

身体的にも精神的にもブルースは身の回りの事を自分で出来る位には良くなっていたが、ディックに甘えて任せることが多かった。アルフレッドという甘えの対象を失ってから、ずっと抑制してきたものがここにきて爆発したのだ。そこには無意識的な媚びも含まさっていた。

二人が共に過ごすのは、就寝時間だけでなく、今やディックが家事をしている時もブルースが傍にいることが殆どだった。用事でディックが部屋を離れると、酷く不安気な視線を寄越すため、ディックも「すぐ戻るよ」とキスをし離れるか、時間が掛かりそうな用事の時はブルースの手を握り連れて行った。

食事はブルースが好みそうなものを数種類、少量ずつ用意し、無理強いすることを止めた。ディックが食事を用意している姿を間近で見る様になってから、あまり食べなかったとしても料理を粗末に扱う事は無くなった。食が細過ぎる時は、ディックがスプーンを口元に持っていくと数口は食べてくれるようにもなった。美味しい?と尋ねれば、頷いたり首を傾げるブルースの様子に気を良くし、ディックは彼が喜ぶようにと料理番組をよく観る様になった。
ディックがテレビを見ている間は、ブルースは隣に座り本を読んでいるか、時にはディックの太股に頭を乗せ寝る事もあった。ブルースの髪を梳きながらテレビを眺めるのがディックの最近の楽しみだった。

ディックの生活に付き添う事で、ブルースが日中にまどろむ機会は減り、比較的、寝れるようにもなってきていた。それでも不穏になったり魘される時は、すぐにディックが彼を抱き寄せ、落ち着くまでしばらくそうしてくれるため、ブルースの不安感も徐々に和らいでいった。

笑う事や喋る事は滅多に無いが、自分を頼りにし甘えてくるブルースの事がディックは可愛くて仕方がなかった。ブルースから甘え始めるよりも、ディックから構う事の方が増え、その比重は次第に逆転していった。安心感からブルースが自立し始めても、ディックは心配というカードを盾に、過剰に関わってくるようになった。







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