<極端> ベッドの中、 「カプ、カプ、カプ」 ディックはそう言いながらブルースの鼻を食べる様な仕草をした。ブルースは嫌そうに顔を顰め、仰け反ると、威嚇する猛獣のような顔つきで「ガウ、ガウ!」とディックの鼻目掛け、噛みついてこようとした。ディックは驚きに目を見開いたが、それはすぐに蕩けるような笑顔に変わった。 「ブルース可愛過ぎ〜〜っっ、そんなの反則だよぉお」 ディックにきつく抱き締められ、ブルースが抗議の唸り声を上げ身悶えしているところで、ディックの側頭に強烈な痛みが走った。涙目で見上げれば、ぶ厚い辞典を持ったティムが立っていた。 「両極端に転ぶとは思ってたけど…まさかここまでとは」 その隙にブルースはするりとベッドから抜け出すと、一目散に部屋から出て行った。 「あぁっ、ブルース!!」 「ちょっと待ってディック」 「なに、ティム!?後ででいい!?追いかけないと」 「それこそ後でいい。ブルースは屋敷のどこかにはいるよ。出たら警報がなる。そんなの知ってるだろ?」 「でも」 「過保護すぎ!!まったく…。まさかとは思うけど、ヤってないよね…?」 「してないよ!!するわけないだろ!!そりゃブルースは可愛いけど、守るべき対象であって、そういう風には見てないよ!!」 「“可愛い”ねぇ……そういう風に言える関係になってくれて一先ず嬉しいけど、極端過ぎない?」 ディックは、ばつが悪そうに笑った。 「……ところで、朝早くからどうしたんだい?」 「暫らく出張でゴッサムを留守にするんだけど、街のことはジェイソンに任せてあるから。それと、もうそろそろガキんちょの授業参観の時期だと思うんだけど、ディック知ってた?」 「え!?知らなかった!!!」 「普通はアカデミーから知らせが来るんだけど、恐らくダミアンが気を遣って止めたんだと思う」 「ダミ……すぐにアカデミーに電話してみる」 電話を掛け始めたディックの元を離れ、ティムはブルースの様子を見に行った。 ◇ ブルースはチェスボードを眺めていた。 「ブルース、一緒にやってみる?」 どうぞと椅子を引きブルースを座らせると、ティムはボードの埃を掃い、駒を並べ始めた。ブルースが駒を動かし始めたが、それはゲームとは言えない遣り方になっていた。ティムは訂正することはせず「ん〜、凄い攻め方するねぇ」「参っちゃうなぁ」「でも、僕はこれ貰っちゃうよ」とブルースに合わせて見せかけのゲームを行っていた。だが、ゲーム展開が進むにつれ、ティムの笑顔は驚きの顔に変わっていった。ブルースの駒が的確な動きを見せ始め、そしてティムが予期していなかった方法で彼のキングを取ったからだ。勝敗に関してはティムが油断していたのもあったが、ブルースがチェスのやり方を思い出したのは確かだった。 「ブルース…す…凄いね」 ティムが心から称賛の言葉を言うと、ブルースは嬉しそうに目を細め、頭を屈めた。しばし固まったあと、ティムはブルースの黒髪を撫でた。 「…いい子、いい子」 顔を上げたブルースが、無垢な子供のような笑みを見せた。ディックの気持ちがわかったティムは何故だか悔しくなり、帰り際、長男の尾てい骨にキックをかました。 <見舞> ディックがダミアンの授業参観に出掛けた日、ジェイソンがブルースの面倒をみることになった。 けれども屋敷に二人でいる事が気まずくなり、ジェイソンはブルースを外に連れ出すことにした。着いたのはゴッサムからかなり離れた別の都市だった。 郊外にバットジェットを止め、そこからはバイクで都市部へと進んだ。 病院に到着したはいいが、見慣れぬ場所に困惑し、ましてここに置いていかれる可能性を危惧したブルースは、その場から動こうとせずジェイソンを困らせた。 ジェイソンはブルースの服を時折引っ張りながら進んだが、抵抗するブルースの歩みは進まなかった。 「あぁ〜っくそ!」 ジェイソンは腹が立った。ブルースにではなく、奇異な目をしてくる通行人にではなく、自分自身に。今の状況を恥ずかしいと思っている己に恥を感じた。彼は意を決すると、ブルースの手をしっかりと握り、ずんずんと歩みを進めた。 病室につくと…ブルースの曇っていた表情は一気に晴れた。 「坊ちゃま!!!」 アルフレッドがブルースを抱き止めた。頻回に見舞いに来ているジェイソンであったが、こんなに嬉しそうなアルフレッドを見たのは久し振りで彼は嬉しくなった。 ジェイソンと顔見知りになっている病棟看護師達は、彼が連れてきた年上のイケメンに、わあわあと騒ぎ部屋を覗きに来た。ゴッサムから離れた街のため、誰もブルース・ウェインの事は知らなかった。 今のブルースは精神年齢の低さも相まって、どこか神秘的で浮世離れした雰囲気を醸し出していた。中世絵画から抜け出したような存在は目立って当然だった。 「ちょっと、ジェイちゃん!あのイケメンさん誰なの?」 「…………親父」 「似てなっ!」 「うるせー」 わーぎゃー騒ぎつつも、看護師達と愉しそうに会話をしているジェイソンを見て、アルフレッドは更に嬉しくなった。ブルースもその光景を見て笑みを携えた。 ◇ 帰宅後、急にブルースは寂しくなり爪を噛み始めた。 「おい、ボロボロになるぞ。腹へってんのか?しょうがねぇな、飯作ってやるから」 ジェイソンはキッチンで何やら作り始めたが、漂ってきたのは美味しい匂いではなく、焦げ臭さと青白い煙だった。やべぇを連呼するジェイソンを心配しブルースが近付いたが、怪我をさせてはいけないとジェイソンは彼を追い払った。 しばらくして、玄関が開く音を耳に捉えたブルースは一目散に駆け出した。出迎えに来てくれたと勘違いしたディックは、ブルースを目一杯ハグして頬擦りをしたが、それどころではないブルースは、ディックをばしばしと叩いて、キッチンまで彼を引っ張っていった。火柱がフライパンから上っているという光景に、ディックは一瞬固まった。 「え、ちょ、ジェイ……大丈夫?」 「だいじょばねぇよ!!!」 消火活動後、すぐには使えない状態と化したキッチンを残し、3人は外食に出掛けた。ジェイソンがチョイスしたのはバーだった。 久し振りに沢山の人がいる場所に出てきたブルースは、早々にストレスを感じ始めていた。そんな中、ジェイソンがカウンターに酒を取り行きバーテンと語っている間、二人の元に酔っぱらいが絡んできた。傍から見れば優男に見えるディックが目をつけられたのだ。 ディックは内心苛立ちながらも、穏やかにかわそうと努めた。ここで自分が怒れば、過去の恐ろしかったディックを思い出してブルースが怖がると思ったからだ。けれど男達は去ってくれなかった。ブルースが不安になる前に追い払いたいと焦るディックの様子が、ブルースには困っているように見えた。 「もう…あっちに行ってくれ…」 ブルースが珍しく口を開いた。驚きでフリーズしているディックを他所に、男達は「行って欲しいなら金くれよ」「そしたらすぐにお暇しますよ」と笑いながら絡み出し、一人の男がブルースのポケットから財布を抜き出そうとした。 ディックはその手を折る勢いで掴むと先ほどまでのヘラヘラした顔とは一転して「いい加減にしろ」と真顔でドスの効いた声を出した。男達は一瞬ぎょっとし固まったが、その顔を見ていなかった一人が「俺らに喧嘩売るなんて、高いぜ?」と笑った。 「俺はもっと高いぜ」 男達が振り返るとジェイソンが悪魔のような微笑みを浮かべ立っていた。 ジェイソンが男達を店の裏でボコっている間、ディックはブルースと食事をしていた。帰ってきたジェイソンは店員にこの店で一番高い酒と料理を持ってくるよう注文した。 「御苦労様。あの男の指へし折ってやった?」 「勿論。ここの支払いは、あいつ等がしてくれるってさ」 「そう、ありがたいね」 <週末> 話は遡る。ディックが授業参観でダミアンに逢いに行った日のことだ。 長男の様子の違いに少年はすぐに気が付いた。だが自分がいない間に何があったかは敢えて聞かなかった。気にならないと言えば嘘になる。だが大事なのは過去ではなく今だとダミアンは割り切った。それはかつて自分が暗殺者として育ってきた過去があるからだった。 ディックは帰り間際、今週末に屋敷に泊まるかを尋ねた。予想通りの即答だった。ダミアンは飛び跳ねて喜び、何が食べたいかオーダーを言い始めた。わかったよとディックが笑った。 『あっ、あと、父さんと一緒に寝るからな!今度は邪魔すんなよ』 『ん〜…僕も一緒でもいい?寂しくてさ』 『仕方ねぇ奴だな、いいぜ!』 『ははっ。相変わらずカッコイイね。……ダミアン…お前は、偉いよ。本当に尊敬する。……ずっとブルースを見放さなかった』 『…仕方ねぇんじゃねぇの?』 ダミアンは目線を逸らしながら『だってお前頑張ってたじゃんかよ』と照れ臭そうに言った。 『父さんはどうあっても俺の父さんだから、最高なことに変わりはない。それに、大事な人を護るのは当たり前のことだろ』 『ダミアン…』 『お前のことも護ってやってもいいぜ』 ディックはダミアンを抱きかかえると、頬擦りをした。 『おい、やめろ!馬鹿グレイソン!!みんなが見てるだろーが!』 ◇ 楽しみにしていた週末がやってきた。ダミアンの帰宅に合わせ出張から帰ってきたティムも屋敷に訪れていた。 ダミアンは一日中ブルースにべったりで、アカデミーでの写真や動画をタブレットで見せていた。ディックが淹れたての紅茶とお菓子を運んで来た。 「おいダミアン、課題やったのか?ティムがいる今のうちに聞いといたほうがいいぞ。僕じゃ教えれないんだから」 「もうやった」 「おっ偉いな」 「父さんに教えてもらった」 「え、ブルースに?」 お菓子に手を伸ばそうとしていたティムが宿題を覗いた。 「これ、かなり難易度の高い問題じゃん。えげつないね、お前の学校」 「教師が意地悪い糞野郎なんだ。でも父さんは、これ3分見詰めて、すぐ答え出したぜ!」 「だから計算式書いてないのか!」 「ところで合ってるの?ちょっと貸して」 ティムが課題と睨みあって45分が経過した。 「合ってた」 「ドレイク、計算式よこせ」 「や〜だよ。これ、全盛期のブルースなら多分数十秒だろうね」 「3分でも凄いよ!ブルースすごーーい、さすがー!」 ディックがブルースに抱き付くと、ブルースは顔を顰めた。 「グレイソン離れろっ!そこは俺の場所だ」 ダミアンが抱き付けば、ブルースは普通の顔に戻った。 「ダミアンなら嫌がらないのにズルい!」 「ちなみに僕も嫌がられませ〜ん」とティムもブルースに抱き付いた。その言葉通り、彼の顔は歪まなかった。 「なんで?!」 「ディックはなんか、ねちっこいからじゃない」 「酷い!」 「そういえば」とティムは何かに閃き、自分の鞄からタブレットを取り出した。 「これ…最近、この企業が伸び悩んでて…この機械の試作モデルが完成すれば変わると思うんだけど、どうしても基準値をクリアできないんだよね…」 ブルースは画面をしばらく見て、タブレットを弄り始めた。数値データや図案、検査記録など、様々な情報を見詰めること2時間。ブルースはティムにメモを渡してきた。端的にキーワードが羅列してあるだけであったが、ティムはそれをみて「そうか!!」と喜んだ。 「凄いやブルース!!なるほど、ここは盲点だったよ!早速、伝えてみるね!!じゃあ会社に戻るから!」 「なんだアイツ。変な奴。父さん、一緒にキャッチボールしよう!」 ダミアンがブルースを連れて外に行くのを、ディックは笑顔で見送った後、ふと表情を暗くした。ブルースの冴え始めた頭が怖かった。この現状をブルースが受け止められるのか、そして自分もまたどうなのだろうかと。 <自慰> ある晩、ブルースはベッドに入ってきたディックを押し出すと「え、ちょな、なに、え、ブルース?!」と困惑しているディックの背中を押し、部屋から締め出した。 ディックが扉を開けようとすると、バン!と、すかさずブルースが閉めてきた。内鍵を取り払っているため、中から鍵はかけれないが、ブルースの唐突な拒絶にディックは無理矢理入ることを躊躇した。 「ブルース、おーい、どうしたのさー」 声はしなかった。ディックは首をかしげた。何の心当たりもなかったからだ。先程まで、ディナーを食べ、テレビを観て、風呂に入らせ、歯を磨き、最近ブルースがやりはじめたチェスを一緒にし、うとうとしてきたのでベッドに入らせ寝かしつけ、自分がシャワーを浴びに行って帰ってきたら、こうなったわけだ。 「どうしたのーー?」 そろりとディックが扉を開けようとすると、バンっと思いきり物が扉にぶつけられた。ついで「いや゛ーー」という抗議の声。どうしても入ってほしくないらしかった。 仕方がなくディックはその場を離れると、監視カメラで部屋の映像をリアルタイムで確認しはじめた。 ブルースが扉をあけ、そこにディックがいないことを確認してからベッドの上に戻ってきた。 彼は、しばしベッドの上に座ったまま、そわそわと落ち着きがなかったが、次の瞬間、下衣に手を入れると腕を動かし始めた。 「ぇ……オナ、ニー……?」 最もプライベートな瞬間だ。ディックは、見るのをやめようと思ったが、ブルースの様子のおかしさに気がつき、画面に釘付けになった。 ブルースの表情は快楽とは程遠い、顰めっ面になっており、腕の動きは乱暴でナニを扱っているとは思えないほどだった。イライラしている様子が画面からも伝わった。怪我をしてしまいそうだと、ディックはいてもたってもいられず、ブルースの部屋に戻った。走って入ってきたディックに、ブルースは下衣に手を突っ込んだままの若干間抜けな状態で、驚き固まった。 「ブルース、優しく扱わないとイタイイタイになっちゃうよ」 ディックはベッドに乗り上げると、ブルースの腕を引いた。そしてその指先をみて、ぎょっとした。少量の血がついていたからだ。まさかと思い、ディックは嫌がるブルースを押し倒し下着ごと下衣を脱ぎとった。案の定、柔らかなぺニスからは少量の血が滲んでいた。 ディックは感染予防のため薄いプラスチック手袋をはめ、ブルースの性器に柔らかなタオルを当てた。レイプによる自信喪失、もしくは薬の副作用、いやどちらかもか?ブルースが属に言うEDになったのではとディックは思った。腕のいい泌尿器科のドクターを見つけ出さないとと思いながら、こしこしとブルースのペニスを拭った。 「大丈夫?痛くない?」 ちらりとディックがブルースの顔を見ると、その顔は仄かに赤らみ、目が合うとサッと逸らした。不思議に思いながらディックが手元に目をやると、ブルースのペニスが半勃ちしていた。 「え…嘘…」 勃起障害…じゃない?ディックは確かめる意味合いで、ブルースのペニスをわざと刺激を与える様にして擦った。 「ひぃぁあ…ッ!!」 ブルースの腰が跳ねあがり、ペニスが反り震えた。むくりと大きくなったそれを見て、ディックは面白くなり、刺激を強くした。ブルースの息が上がり、先走りが溢れ始めた。ディックがタオルでそれを拭き取れば、敏感な亀頭が生地で擦れ、ブルースは身悶えた。 「んぅ、ぁ…、…あッ……ぁあ…」 もうそろそろで射精するだろうと思えたその時、久しくして来なかった射精への不安と、今まで散々男達に遊ばれてきたトラウマから、ブルースは狂ったように暴れディックから離れようとした。慌ててディックが取り押さえようとすると、パニックになったブルースはベッドから転げ落ち、顔面を強打してうずくまった。 「わっ!ブルース大丈夫?!おいで、痛かったね」 ディックはブルースを抱え起こし、ベッドに寝かせた。痛みでペニスは萎えていた。けれど、もう一度勃起させようとディックが触ると、ブルースは脚をばたつかせて嫌がり、最終的にはべそをかき始めた。 「うああぁっごめんね、ブルース。わかった、やめるから。ねっ」 ディックは体液で濡れているブルースの性器を拭い、プラスチック手袋と共にそれを棄てた。 勃起はできるが、自分では様々なトラウマがあり、うまく性器を扱えない。フラストレーションだけが募っていく現状をみて、ディックはブルースのオナニーを手伝うことを決めた。 <秘密> ディックはアダルトグッズを買って良かったと心底思った。バイブの中間についていた突起が前立腺を直接刺激し、ブルースは完全にあそこを勃起させ恍惚の表情を浮かべていた。 程無くしてブルースが白濁をコンドームに吐き出した為、ディックはスイッチを切ろうとして誤って逆方向の振動を強める方に動かしてしまった。強烈なバイブレーションになった瞬間のことだった。ブルースは大きく喘ぐと再度射精し全身をびくびくと痙攣させた。 「ひっ、ぁ……ぁあ……!」 なおもスイッチが入り続けていることで、ブルースの内腿とペニスは振動で震えていた。えろいなぁとしばらく眺めていたディックに、助けを求めるようにブルースの腕が伸びてきた。目を潤ませ、濡れた唇を震わせる姿は、誘っているようにしか見えなかった。ディックはバイブを中に放置したまま、ブルースをきつく抱き締めた。 「いい子、いい子、一杯出したねぇ。気持ち良かったの?」 「やぁっ……だ!……はな、せっ!ぁうっ、でるぅ…ッ」 「いいよ、もっと出して」 「やだぁ!!ぃやぁあ゛ぁあ!!」 「よしよし、いいんだよ、イこうね」 「ぁ、あッ、おしっ……こ!」 「え?」 少量の黄色い液体が流れ出た。するりと外れていったコンドームを眺め、唖然とするディックの下でブルースが身を震わせ顔を覆った。 「…やだ…って…言った………ッ、うっ、っく……ッ」 「……あ、や、ごめんブルース!僕が悪かった!ごめん、ごめんね、泣かないで!ねっまずはシャワー浴びようね。ブルースごめんね、ほんと、ごめん!」 シャワールームでブルースの体を洗いながら、こんなことをしている事を、他の兄弟には絶対に知られてはいけないとディックは思った。 <露見> ブルースが明らかにディックを避けてる様子を見て、ティムは目を細めた。それは過去に見てきた“怯え”や“怒り”とは違う、ある種の“抗議”のように見えた。一方でディックは困ったような顔をし、強い態度でブルースに出ていないところをみると、二人の間で何かがあったことは明白だった。 ブルースが別室で本を読み漁っている間、ティムはディックの元に行った。 「ねぇ、ディック。何かあったの?」 「え!?いや、別に、何もないよ!」 「ふ〜ん…そっかぁ」 何かって何?と尋ね返してこないところみると、ますます怪しいとティムは思った。そそくさと逃げる様にしてその場を立ち去ったディックを眺め、ティムは考えた。 入浴の時間、ブルースは一人で入りに行った。前回、ティムが訪れた時はディックが手伝いと称して一緒に入っていた。ティムはブルースの姿を見送ったあと、夕食の洗い物をしているディックに喋りかけた。 「今日は一緒に入らないの?」 「ん?あぁ、まぁね」 ブルースに嫌がられたからとは言いにくく、曖昧にディックは笑った。 「“自立を促したら”っていう僕のアドバイス、実践してくれてるようで良かったよ」 「はは…」 「ところで、ここ最近の寝室の監視カメラ映像がぶちぶち途切れてるのは何故?」 「え?…………え!?!?」 「時間とかうまく調整されてるけど、映像の繋がりが若干おかしくてさ。どうして編集する必要があるのかなぁって。ついでに言うと、なんで自動保存システムに入ってるべき映像が消去ボックスに入ってるかも不思議だしさ」 「………」 無言のディックに代わり、水道水の音だけがやけにうるさかった。ティムは水道を止めると、ディックの顔を覗き込み、にこりと笑った。 「僕に隠してること、教えて欲しいな」 「…べ…つに…隠してなんか……」 「そう。なら、最後にもう一つだけ。あのね、編集で切り取られた映像を復元するのって、そんなに難しいことじゃないんだよね」 ディックの顔から色が失われた。 「すいませんでした!!!!」 土下座するディックを、ティムは絶対零度の笑顔でもって見降ろしていた。 「あのさー、ディックはあれを健全とするわけ?ん?」 「や、でも、やましい気持ちとかはなくて…その、発散させる手伝いとして…」 「そうだね。男性機能を低下させない為と、精神的な安定を図るためにも定期的に射精は必要だとは思うし、それが自分で出来ない状態なら手伝うのは必要だと思うよ。けどさ、明らかにディックも楽しんでたでしょ」 「そんなことない!」 「ないならその映像を編集する必要なくない?」 「……はい」 「本来の意味を忘れてきてたでしょ。だから昨晩はあんな結末になって、それで今もブルースは怒ってる。違う?」 「違くないです…」 「そうですね」 「でも、だって!」 「なに?」 「……ブルース可愛いんだもん」 「はいはい。はーいはい。そうだね、可愛いよね。でも可愛いからって何でもしていいわけじゃないでしょ?ディックの感情で行き過ぎたら、それってただの犯罪だから!!」 ディックはしょんぼりと肩をおとした。丁度その時、深夜12時を告げる柱時計の音がした。ティムが説教をまだ続けようとした時だった。 きぃ…… ドアの音に振り向けば、ブルースが枕を二つ粗雑に持っていた。その枕はディックのものとティムのものだった。ブルースは二人の様子を眺めた後、枕を胸に抱え踵を返した。 ディックもティムも話し合いをやめ、ブルースの後を辿った。辿り着いたのは寝室で、ブルースは自分の両脇に二人の枕を置くと、ドアの入口で目を丸くしている二人をじっと見つめた。 「……寝る」 端的な物言いだったが、明らかに二人に寝て欲しいという意味だった。二人は目を見合わせた。ディックがへらっと笑みを溶かした。 「あんなのされたら仕方がないだろ?可愛過ぎるの、わかってくれた?」 「はぁ〜…っっもう!」 ティムはディックを睨み付け、悔しげに頭を振ると、険しい面持ちでベッドに突き進んだ。そして見上げてくるブルースの前で笑顔を浮かべると、頭を撫でた。 「じゃあ、僕は右側ね」 ブルースが頬笑んだ。 川の字になりながら、ディックはブルースを抱き枕のように抱えた。ティムがきっと睨んだ。 「ちょっと近いんじゃないの?」 「だってこの方が安心して眠れるし」 「ブルースがじゃなくてディックがでしょ」 「正解」 「ぼくは許したわけでも、認めたわけでもないからね」 翌朝、朝食の席で二人はトーストをかじっていた。 「…っていうか、ディック自身はどうなの?」 「どうって?」 「溜まってるんでしょ。自分一人で解消できてるの?たまには街に出てきなよ」 「いいよ、ブルースのことだってあるし」 「だから尚更だよ。欲求不満が高まり過ぎて万が一のことが起きたら…」 「ない!それは絶対にない!!そんなことしない!!」 「本当に言い切れるの?ブルースが求めてきても?“ディックが欲しい、ちょうだい”って泣いておねだりされたら断り切れる?」 「あぁ、断れる」 「“大好きなディックを気持ち良くさせたい!”“ディック大大大好き!!”」 「うっ……けど……大丈夫。っていうか、そんなこと言ってくれないし」 「そう。ならいいけど。もしブルースと姦通しちゃったらダミアンに言うから」 「なっ!?!」 「言うよ。だって、それが一番恐ろしいでしょ」 「…でも……絶対大丈夫…」 <愛護> 「ぁっ、あん…ンっ!!……はぁ…ぁ…」 果てたブルースのコンドームを片付けている最中、ディックは自分の股間が熱い事に気が付いていた。明らかに主張している己のモノに、ディックは悩ましい溜め息を溢した。 今や庇護の対象と化している養父のオナニーを手伝い、その様子を見て興奮している自分……罪悪感が湧かないわけはなかった。 ディックはブルースの前髪をすき、額にキスを送るとタオルケットをかけた。 「疲れたでしょ?寝てていいよ。すぐに戻るね」 ブルースはトロリと眠そうな瞳でディックを見やると、その頬を労う様に一撫でしてきた。ディックはその手に自分の手を重ねると「おやすみ」と頬笑んだ。 ディックはシャワールームで自分のモノを扱き、歴代の彼女や、関係をもった魅力的な女性を思い出した。けれども、身体が快楽を感じ始めるといつの間にか女性達が、ベッドの上のブルースに置き換わり、ぎょっとして手を止める為なかなかイクことが出来なかった。 中途半端な射精ですっきりしないモヤモヤを抱えたままベッドに戻ると、ブルースが静かに寝息を立てていた。起こさないように入ったが、ブルースは細く目を開くと、ディックにすり寄ってきた。まるで猫のようだと思いつつ、ディックはその身体を抱き止めた。もやもやとした気持ちなどどこかに消えてしまったかのように心地良かった。ブルースの頭を撫でつつ、そのシャンプーの香りを嗅ぎ眠った。 夢の中で、ディックはセックスをしていた。『舐めて』と舌を出せば、相手は躊躇なく舌で舌をなぞり、唇であま噛みをしてきた。『いい子だね、ご褒美に…』ディックのペニスが中を擦れば、腕の中の人物が喘ぎ声をあげ、しがみついてきた。深い口付けをしながら相手の体をまさぐり、出来る限りの愛情を示した。 自分に組み敷かれ大きく開脚している人物の顔はぼやけて誰だかわからなかったが、その身体は女性のものではなかった。よく見知っている…。 はっとディックは飛び起きた。焦ったように隣を見ると、ブルースの姿はなく、開かれたカーテンからは陽の光が差し込んでいた。時計は朝の8時を回っていた。 「ブルース!?」 いつもブルースに付けている超小型のGPSはナイトテーブルに置かれたままだった。ディックはタブレットで監視カメラのモニターを確認しながら屋敷中を探した。 ブルースは庭先にいた。最近はある程度自由に動けるように玄関の鍵は閉めないことにしていた。 「ここにいたんだね。ブルース、外に出る時は声掛けて。心配だから。ねっ」 ブルースは返事も頷きもしなかったが、花を一輪摘むとディックの耳上に挿し、ふわりと笑った。ディックは胸が詰まった。堪らなく愛しいという気持ちが沸き上がり、ブルースをぐっと抱き締めた。 <限界> 風呂から上がり、乱れたバスローブのままソファに埋まっているブルースを見て、ディックはやばいと感じた。覗く首筋はいつも見ていたものであったが、何故かこの時、ディックの股間は熱く頭をもたげていた。 その晩、ディックは急遽ジェイソンを呼んだ。 「で、この時間になんの用事で街に行くんだよ。ヴィジランテ活動だったら、俺が行くが」 「いや、そういうんじゃないんだけど……。兎に角、今晩はお願い……」 ディックの様子から、何かを察したジェイソンは仕方がないと頭を掻いた。 「けど俺は一緒に寝ないからな」 「頼むよ」 「今まで一人でも寝れてただろうが!」 「2時間程度ね。あとは徘徊。一緒に寝たら大概朝までぐっすり。どっちを選ぶ?」 「……ちっ」 広いベッドの中、微妙な距離を保ち二人は寝ていた。もぞもぞと寝付けないブルースが小さく身動きしているのがわかったが、ジェイソンはどうしてやればいいのかわからず、寝たフリをしながら様子を伺っていた。 ようやく二人が眠りにつけた朝方、部屋の扉が開く音にジェイソンはすぐに反応し、ブルースの身を庇いながら臨戦態勢をとった。が、そこに立っていたのはディックだった。 「随分と早いお帰りじゃねぇか」 「まぁね……」 「……すっきりした顔じゃねぇな。っていうか、その頬の傷どうしたよ?」 「引っ掻かれちゃった」 「どういうプレイだ」 「あ〜あ、二人に癒して貰おっと!」 ディックはジェイソンとブルースの間にジャンプするとブルースの顔を自分の方に向かせた。 「ただいまぁ〜」 ちゅっと自然にキスをしている長男を目の当たりにし、ジェイソンは気が遠くなった。ブルースは嫌そうにディックを押し退けたが、その頬に血が滲んでいる事に気がつき、自身の手の甲でディックの頬を拭った。 「ぅああっ優しい!ありがとう!!可愛いなぁ!」 ぎゅっと抱き締めてきたディックのことを、ブルースが盛大なしかめっ面で押し返そうとしていた。見ていられずジェイソンが引き剥がすと、今度はジェイソンに抱きついてきた。 「うぉぉおっ!!な、何すんだよ!」 「ん〜ジェイも可愛いよ!」 「可愛くなくたっていい!つーか、キスしてくんなよっ、お前酔ってんだろ!」 ふへへと笑いながらディックは抱きついたまま寝落ちした。 「ちょ、おい!」 ジェイソンは助けを求めるようにブルースの方をみたが、ブルースは我関せずといった様子で背を向けタオルケットを被った。くそぉと言いながらも、どうにもすることができず、ジェイソンもそのまま横になった。 朝になり、この状態にも関わらず久し振りに熟睡出来たことにジェイソンは驚いていた。一方でディックは二日酔いで久し振りに気持ち悪い目覚めを経験した。 <番狼> 「今日は俺と一緒にいろ。いいな」 ブルースがまじまじとジェイソンを見詰めた。その瞳には、恐怖も嫌悪の色も無く、純粋にyesだけが浮かんでいた。 「そ、そんなに見るなっ」 二日酔いで家事が出来ないディックに代わり、ジェイソンがブルースを連れ出しアルフレッドに会いに行った。アルフは元より、看護師達もブルースの再訪に喜んだ。 前回同様に、ジェイソンは駐車場から病室までの道程を手を繋ぎ歩いたのだが、奇異な目は勿論のこと小さな陰口も叩かれていた。ジェイソンは苛つきながらも無視を決め込んでいたが、帰路につく際、とある罵倒に足を止めた。 『病院に来んなよ。ゲイが移る』 ギロリという音が付きそうな勢いでもってジェイソンは男を睨んだ。 「おい、てめぇか」 蛇に睨まれたように固まっている男に近付くと、ジェイソンは鬼の形相から一転し、嘲るように鼻で笑った。 「二度と口を開くな。不細工が移る」 それと……と付けたしながら、ジェイソンは辺りを取り巻いている野次馬を睨んだ。 「てめぇらもだ。きめぇ顔で見てくるんじゃねぇよ。虫酸が走る!散れっ!!」 四方から憤怒の声が上がる中、全員ぶっ殺してやりてぇと呟きながらジェイソンはブルースを引っ張りその場を離れた。 バットジェットの中、ブルースは浮かない顔をし、落ち着きがなかった。 「あんなの気にすんな。わかったか?」 朝とは違い、ブルースはジェイソンの目を見ず、爪を噛み始めた。先程の一悶着で、彼の精神は不安定になっていた。それは罵倒の内容にではなく、自分のせいでジェイソンを怒らせたという事が心に影を落としていた。 「お、おい、爪噛むな」 ジェイソンがおずおずと手を伸ばすと、ブルースはむずがり更に落ち着きを無くし始めた。 「わかった、わかった、なにもしねぇって」 屋敷に着くまでの間、ジェイソンは様々な方法でブルースの気分を回復させようと努めた。 「おい、飴食うか?……そうか……じゃあ…キャラメル食うか?」 「何か聴くか?このヘビメタとか最高だぜ。くぅ、いいよなー、このイントロ!……わかった、わかった、止めるから!」 「仕方ねぇ、とっておきのモノマネ見せてやるよ。“ブルース様、服は雑巾ではありません”……どうよ、脱ぎ散らかした服に文句を言うアルフレッドの真似。…え、な、泣くなよ!悪かったって!今度また逢わせてやるから、な!」 <恐怖> 一人、屋敷で留守番をしているグロッキーなディックの元にティムがやってきた。 「発散できた?っていうか…頬っぺたどうしたのさ。猫とでもヤッたの?」 「いや、何て言うか……酔っててあんまり覚え」 「嘘だね。ディックは確かにヤリチンだけど、べろべろに酔って女性を抱くタイプじゃないだろ」 「ヤ、ヤリ……そんな言葉どこで覚えてきたんだよぉ、僕の可愛い弟がぁぁ」 「はいはい。で、お相手を怒らせたわけは?」 「…………発射寸前に別の人の名前を口走っちゃった……」 「馬鹿」 「うん……ちなみに誰の名前か知りたい?」 「知りたくない」 「僕だって知りたくなかったよ……」 「それで、自分でもショックでやけ酒したわけね」 「御名答、さすが自慢の弟だ」 「まさか抱いてる最中も想像してたわけじゃないよね」 「まさか!違うよ……。でも最近ずっと名前呼ぶっていったら“ブルース”ばっかりだったから反射的に口をついてさ……しかも『それ誰』って聞かれて気が動転してさ『父親』って言っちゃった……」 「うーわ。キツい。よくその程度で済んだね。あのさぁ彼女つくったら?ブルースに入れ込みすぎてて、正直、僕でさえ引くよ。っていうかブルースが可哀想」 「んー……それは最終手段として考えとく。あのさ…このタイミングでティムに言ったら引かれるかもしれないんだけどさぁ」 「すでに現時点で聞きたくないんだけど」 「ブルースのアルバム作っちゃったんだよね」 「キモい!」 「期待を裏切らない答えだね!そういう率直なところ大好きだよ」 「僕はディックのそういう“開き直った変態”なところ嫌いだけどね」 ティムはディックが持ってきたアルバムを分捕ると乱暴に捲った。どの写真のブルースも一つも笑っていなかった。 「ね、ね、可愛いでしょ?!」 「可愛いっていうか、イケメンではあるけど…。でもディックはこれをどうしたいの?成長記録のつもり?」 「え、別に。見てて楽しいだけ」 「正真正銘の変態じゃん!…っていうか、やばい写真まで撮ってないよね…?」 「やばい写真???」 「夜中の」 「あっオナ……とっ撮ってるわけないだろ!!まさかそこまではしないよ!!変態じゃん!!」 「だって変態だし。ダミアンに見せよっかな」 「やめて!信用を無くしそうだ!」 「子供に胸はって見せれるようなものじゃないならやめなさい」 ティムは帰ってきたジェイソンに“ディックが末期だ”と話した。二人で相談した結果、今晩もディックを街に追い出し、ジェイソンがゴッサムを監視し、ティムがブルースと過ごす運びとなった。 ジェイソンはディックと共に屋敷を出る前、ティムに忠告した。 『あいつ、荒れそうだぞ』 その言葉通り、ディック不在の屋敷ではティムの慌てた声ばかりが響いていた。 「わっ!ブルースちょっと」 「え、待って」 「そんな」 「ちょ、なんで?!」 いつもいるディックが長時間に渡って傍に居ない事や日中の件で、ブルースは不安定になっていた。事実、ここに帰ってくるまでの間、ジェイソンもかなり手こずった。 真夜中は更に大変で、落ち着かないブルースの徘徊や奇行にはらはらしながらティムは見守り付いて回った。ブルースがベッドに戻り寝てからも、いつ何をし始めるか気が気でなく、ティムは一睡も出来なかった。 遅い朝食の席で「ブルース、美味しい?」と尋ねながらも、自分は何も口にせず、ぐったりとしているティムを見てディックは驚いた。 「ただいま。ティムどうしたの」 「ごめんディック……今までなめてた……超大変……これに家事までこなしてたとか……すごすぎ」 「ティム、休んでていいよ。ブルース、いい子にしてた?」 ディックがブルースを抱き寄せキスをしようとした瞬間、ブルースが思い切りディックの頬を叩いた。 「いててっ、今日は最近の中じゃ珍しくご機嫌斜めだね。僕がいなくて寂しかった?なんて言ってね」 ブルースはキッとディックを睨むと、立ち去ってしまった。 「ありゃ……図星?」 「一晩中、ディックを捜してたよ」 「まじ?やばい、嬉しい。どうしよう…僕…今なら死んでもいい」 「ちょっとやめてよ。あんたがいなくなったら大惨事だ。っていうか、喜んでいられるのも今の内だけかもよ」 女の香りを纏って帰ってきたディックにブルースはけして近づかなかった。 「ブルース、ブルースってば、ねぇ」 ディックが肩に触るとブルースは声を荒げて嫌がり逃げた。ディックはそんなブルースが可愛いと思えたが、次第に状況は怪しくなり可愛いで済むものではなくなった。 会話どころか、食事も拒絶し、薬まで嫌がった。投薬に関してだけは譲れなかったディックが「ダメ!これだけは絶対飲みなさい!」と強めに諭すと、ブルースはむずがりながらも薬だけは飲んだ。 夜はディックを寝室に入れてくれなかった。仕方がなく、ディックは久し振りに自室で寝ることにした。無論、手には監視カメラを持って。 そこに映っているブルースは、寝返りをうったり、窓辺に佇んだりと落ち着きがなかった。久し振りに腕を噛み始めたのを目撃し、ディックは止めに行こうとして動きを止めた。ブルースが部屋を出てこちらに向かって来ていたからだ。 静かに扉が開いた。 「ブルース…?どうしたの、おいで」 ブルースは険しい顔のままディックに近付くと、数歩手前で立ち止まった。 「……なぐって…」 「え?」 「さし…ても……」 「ど、どうしたの?」 「…やくの…も」 ブルースは突然服を脱ぎ始めた。 「ちょ、ブルースっ」 ディックはベッドから飛び起きると、ブルースの手をとりやめさせた。 「どうしたの?ん?」 ブルースは泣き出しそうに顔を歪め俯いた。 「な、んでも、し、てぃい…から…っ」 「え?」 「っす、て……っない、で」 またも言わせてしまったその言葉に、ディックは表情を失った。寂しがってくれたと喜んでいた自分がどれほど愚かだったかを理解した。ブルースが抱えていたものは、寂しさ等という可愛らしいものではなく、とてつもない“恐怖”だった。 「そ…そんなこと絶対しないから…っ大丈夫だから」 ブルースを抱き締め、ディックはその背中を撫で続けた。どれだけ今が良かったとしても、過去の傷は無かったことにはならない。償いきれない自身の罪の重さに、ディックは歯を噛み締めた。 戻れるのならば、ブルースを発見した日に戻りたいと願った。そして今と同じ愛情を注ぎ、彼を受け入れたいと。 誘拐された日よりも、その日を望んだ事にディックは何の疑問も抱かなかった。 ◇ 「で、しばらく女性はいいって?」 「うん、ブルースがいればいいや」 「行くとこまで行っちゃったね。あんたが恐いよ」 「別に開き直ったわけじゃないよ。ただ、なんて言うか…」 「まぁ、ブルースも不安定になるのわかったから、僕もあーだこうだは言えないけど。 ところで、ダミアンのことだけど、先日泊まりに来た時もブルース穏やかだったし、もうそろそろ屋敷に戻してもいいんじゃないかな。放っておくと今度はあっちがグレるかもよ」 「そうだね、その方が僕も安心かも知れない」 「?」 「二人だけだと、突発的に無理心中しちゃうかも知れないから…」 「…………あぁ〜うん…なきにしもあらずだね」 <狂喜> 手続きは滞りなく進み、二週間後にダミアンが寮から帰ってくることになった。 ダミアンが戻ってくることをティムから聞いたブルースは、身の回りのことをほぼ一人で行うようになった。すぐに手を出そうとするディックを、ティムが叩いて止めさせた。一人でも寝れるようになってきたブルースとは対照的に、ディックの方が不眠になり度々ブルースの様子を覗きに来ていた。 二人が共に寝ることは少なくなったが、ブルースをベッドに寝かしつける習慣だけは無くさなかった。 ディックがおやすみのキスをしようとすると、ブルースが手で顔を覆った。嫌だからではなく、自分が何かの病気を保有していることに勘付き始めたからだ。 最近のブルースは以前よりも冷静に自分の状態や周囲の状況を観察できるようになっていた。思考力がついたのではなく、かかっていた霧が少しずつ晴れてきている、その方がイメージとしては近かった。けれどもどんなに霧が晴れたところで、その先の景色が今までと同じではないとディックはわかっていた。身体に巡った薬物と過度の精神的ストレスは、脳を蝕み変質させてしまったからだ。 これからのブルースは快方に向かえば向かうほど、その歪んだ世界を認知し、けれどもどうする事も出来ない自分に葛藤し、苦しみ生きていかなければいけなかった。 「ブルース、キスじゃうつらないよ」 ディックは手の甲にキスを贈ると、ブルースの髪をすいた。ゆったりとブルースが瞼を閉じ、眠りに落ちていった。 ディックは瞼と唇に口づけをすると、ブルースの顔をじっと見詰めながら頬を撫でた。 ずっとこのままだったらどうしようかとディックは思った。それは今までにも何度も何度も思ってきたことだった。ただしそれは以前とは違うニュアンスに変わっていた。 前はブルースが元に戻らない事を悲観していたが、今はこのままの関係で最期まで迎えられれば、それもいいのかもしれないと思えていた。 “自分がいなければブルースは生きていけない” その考えはディックの心をぞくぞくと震わせた。哀しみの陰から、薄暗い幸福感が湧き出ていた。 <記者> ブルースを連れ歩く時は、できるだけゴッサムから離れた都市に行き、ディックもブルースも変装をしていたのだが、いつしかそれに馴れ過ぎ、ゴッサムでも帽子とマスクを被せただけの簡易的な姿で出るようになった。 とある日、ブルースが水を飲むのにマスクを外す場面があり、それを目撃した人物がいた。『ブルース・ウェインに似ている人物がいる』タレこみによりマスコミの一部が水面下で動き出した。 ある日、ディックが庭でシーツを干している最中のことだった。センサーが反応し警報が鳴った。庭で散歩していたはずのブルースが血相を変えてディックの元へ駆けてきた。 「どうしたの、ブルース!?」 抱き止めたディックが、ブルースの駆けてきた方向を見ると、走り去る影があった。パパラッチだった。すぐさま後を追ったが、無情にも黒いバイクは走り去ってしまった。 事態は2時間後にはもう動き出した。 ディックがその事を知ったのはティムからの電話でだった。 『ディック、大変だ!WEBニュースにブルースの写真が載った!会社に問い合わせの電話が殺到してて、役員も説明を求めてきてる!しばらく僕はそっちに行けそうにないんだけど、屋敷にマスコミが押しかけると思うから絶対に対応しちゃ駄目だからね!』 ディックはすぐさまWEBニュースを確認した。 そこには、以前のブルースの写真と、痩せて虚ろな目をしている今の写真が比較され並んでいた。記者を見つけた瞬間だと思われる、驚きと不安に顔をこわばらせている写真も載っていた。 “薬物乱用か!?” “ついにドラッグに溺れた寵児” 様々なバッシングの文字が踊る中 “ゴッサムの不名誉” “行方不明だった方がマシ” という文字を目に捉え、ディックは怒りに獣のような唸り声をあげた。 一時間もしない内に報道陣が屋敷に押しかけ、五月蠅いほどにチャイムが鳴らされた。 不安に怯えているブルースに対し、ディックは努めて笑顔で声をかけ、窓のない部屋に連れていった。ブルースの好みそうな音楽をかけ、外の騒音が聴こえないようにすると、ここにいるよう伝えディックは部屋を離れた。 まだダミアンがアカデミーから帰ってきていなかったのだ。今日は屋敷に帰らずペントハウスに行けと連絡しようとした矢先のことだった。玄関で騒ぎ立てる声を聞き、ディックは駆けた。 ダミアンがぶちギレていた。 「散れっ!!くそ野郎ども!!!噛みつくぞ!!」 そんなダミアンを記者達はカメラで撮り、父親はどうしたと質問攻めにした。ダミアンが興奮し、近くにいた記者に掴みかかろうとした。 ディックは扉を開けると、ダミアンを掴み引っ張りこもうとしたが、あまりの記者の多さにスムーズに事は運べなかった。もたついている間に、ディックも写真を撮られ、四方八方から質問が飛び交ってきた。そのどれもが悪意のある質問で、ディックは思わず吠えたくなるのを堪え、暴言をスピーカーのように出し続けているダミアンを小脇に抱え屋敷に戻った。ダミアンは勝手に入ってこようとする記者の腹をキックし、唾を吐きつけた。 「グレイソン、父さんは!?父さんは大丈夫か!?」 「あぁ…書斎にいる」 ダミアンは階段を駆け上がっていった。 騒ぎの収まらないウェイン邸の前に、一台の車が入ってきた。乱雑に停めてある記者達の車に、容赦なくぶつかりながら侵入してきたその車は、記者達のいるスレスレまで来て止まった。 運転席から出てきたのはジェイソンで、助手席から現れたのはアルフレッドだった。 「おら、どけよ」 ジェイソンはカメラマン達のカメラを次から次へと取り上げ、地面に叩きつけていった。その後ろをアルフレッドは背筋をピンと伸ばして着いていった。 「ペニーワースさん、あなたの主人は一体どうなさったのですか!?」 「ここ数年、姿を見せていませんでしたが、何か危ない薬でもしてたんじゃないですか?」 「それとも精神的な病ですか!?」 「こんな人が会社のCEOで大丈夫なんですか?!」 アルフレッドは扉の前で立ち止まると、記者達に堂々と向き合い、にこやかな笑みを浮かべた。 「わたくしは皆様に御満足頂ける真実を述べれる自信がありませんので、どうぞ御自由にお書きになって下さい」 では失礼とアルフレッドは扉をくぐった。ジェイソンは扉の隙間を覗こうとする記者の胸ぐらを掴みあげると「ここにいる奴ら、全員顔覚えたからな。覚悟しとけよ」と吐き捨て屋敷に入っていった。 「アルフ……っおかえり」 扉の向こうにいたディックは、数ヵ月ぶりに会うアルフレッドとの再会にハグをした。 「よくぞ頑張って下さいました」 ディックは執事の薄い肩に顔を埋めた。二人はしばらく抱き合ったままでいた。 しばらくしてディックは離れると、玄関先でまだ騒いでいる記者達の声に眉を下げた。 「どうしよう…僕が迂闊だったせいで…っブルースがゴシップに祭り上げられた…」 「いいではありませんか。過去にも数えきれないほどゴシップにはお世話になっています」 「でもっ今回のは……もうブルースは…世間に出られない…僕が…っウェイン家の歴史を台無しにした。彼の人生を……っ」 「歴史に価値があるのではありません。人に価値があるのです。私達が守るべきものは……」 ダミアンに手を引かれブルースが現れた。彼はアルフレッドに駆け寄るときつく抱擁を交わした。 ディックはその光景を眺めながらアルフレッドの言葉を反芻していた。 守るべきものは……よくよく考えれば駒鳥時代から今に至るまで変わりはなかった。ずっと、そうだったのだ。シンプルな答えは青年の胸にストンと落ちた。 <幸福> 樹木と花が咲き誇るテラスに、穏やかな陽が降り注いでいる。テーブルの上からは甘い香りが漂い、楽しそうな声が響いている。 アールグレイを注ぐ執事。切り分けられたパイを次から次へと頬張る末っ子。それを馬鹿にし笑う次男。ほら無くなるよとパイを渡す三男。ありがとうと受取り、隣の男にフォークを持たせる長男。 幸福のものさしは人によって違うが、一人を除くここにいる全員が同じ幸福を共有していた。 「幸せだね」 ディックが頬笑みかけてきたが、ブルースは頷く事も笑う事も出来なかった。幸せとは何か、考えてみたがわからなかった。ただ頭の中で誰かが『NO』と必死に叫んでいた。聞き覚えのある声だったが、それが誰かはわからなかった。 不安げな表情を浮かべているブルースの頭をディックが優しく撫でた。 「大丈夫だよ、僕等がずっと傍にいるからね」 チチチ…という可愛らしい声を出し、小鳥が飛んでいった。ブルースは目を細め、風景に溶けていく小鳥を追った。青空はどこまでも広がり、恐ろしいほど遠かった。まるで此処だけが現実から切り離された場所のように思えた。 ブルースは愉しげな家族の様子を眺めた。何故だか無性に悲しくなって唇を噛み締め俯いた。『…sorry』という呟きは笑い声にかき消された。 2016/7/15 ― 白痴 ― |