<亀裂>

救急治療室に入る寸前、意識を一瞬取り戻したアルフレッドは、付き添っているディックに「大丈夫だとお伝えください」と息絶え絶えに何度も懇願した。
ディックが病院へ行っている間、屋敷にはティムとダミアンがブルースの傍についていた。ブルースはシーツにくるまったまま、ずっと震えていた。

2時間の手術を終え、アルフレッドはICUに移された。ディックの連絡でジェイソンも病院に駆けつけていた。
朝方になり、アルフレッドの意織が一瞬醒めた。峠は越えたと医者から説明を聞き、ディックとジェイソンは入院に必要な道具を取りに一度屋敷に戻ることにした。


ブルースに話を聞かせないよう、ディックは別室で二人にアルフレッドの容体を話した。
「命に別状はないって。でも退院には時間がかかるって」
ティムは安著の溜息を零した。ダミアンは少しだけ泣いて、目を擦った。
「ブルースはどうだった?」
「ずっとベッドに籠ったままで、特に何もなかったよ」
「そう。二人とも疲れただろう、ゆっくり休んで」
「僕は少し仮眠をとってから会社に行ってくるよ」
「俺は学校休む…」
二人が部屋から出ていった後、ディックは先ほどまで隣にいたジェイソンがいないことに気が付いた。まさかと思い、慌ててブルースの部屋に駆けた。

ジェイソンがブルースの胸倉を掴み上げていた。
「ジェイ!」
「こいつのせいでアルフは!!」
「落ちつけ!!」
ジェイソンがブルースを殴り、ブルースがベッドに倒れ込んだ。上体をディックに押さえられた為、ジェイソンは足でベッドを蹴飛ばした。騒ぎを聞き付け、ダミアンとティムが駆けつけてきた。
「何してんだよ、トッドっ!!!」
ダミアンはジェイソンと本気のバトルを始め、ディックはそんな二人を止めることに必死になった。ティムはベッドの上で怯えているブルースをなだめていた。
混沌と化した室内で、途端ブルースが発狂し、近くの窓へと駆け出した。慌ててティムが止めに入り、ダミアンとディックも動きをピタリと止めた。そんな中、怒りの収まらないジェイソンが叫んだ。
「飛びたきゃ飛べよ!!!アルフの痛みを知れ!!お前が逃げ出そうとしてるものを、全部受け止めてくれてたんだぞ!!これでもしアルフが死んだら…俺はお前を絶対に許さないっ!!」
「てめぇ、父さんに何てこと言うんだ!許さねぇ、待ちやがれ!」
ダミアンは部屋から出ていったジェイソンを追いかけようとしたがディックに力付くで止められた。その時、ティムが叫ぶような声をあげた。
「ブルース!?!」
ティムの前で、ブルースは意織を失い床に崩れた。急激なストレスによる意識消失発作だった。


<待人>

ジェイソンとはあれ以来連絡がとれなくなっていた。アルフレッドがいない分、ディックは家事とブルースの面倒を一手に担っていた。

昼時のことだった。ブルースは落ちつかずウロウロとし出した。
「どこいくの?」
「……アルフ…」
「彼は入院してる。もう昼だ、ダイニングに行って」
けれどもブルースはディックの声を無視して玄関まで行ってしまった。
「あぁもうっ、勝手にしろ!」
ディックは諦め、ブルースを放っておくことにした。玄関は外からは入れても、中からはキーを押さないと出れない仕組みにしているため、ブルースが出ていってしまう心配はなかった。窓から出たとしても屋敷から10メートル離れた箇所にはレーザーセンサーを張り巡らしており、そこを通過すると警報がなる仕組みなっていた。

学校が終わり急いで帰宅したダミアンは扉を開けて驚いた。貧血で青ざめた表情のブルースが立っていたからだ。
「父さん?!父さん、オレだよ」
ブルースはゆっくり瞬きをして、ダミアンを焦点に捉えると、反射的に頭を撫でた。ダミアンは少し照れくさそうにそれを受け入れた。
「父さん、リビングに行こう」
ブルースは動かなかった。
「行かないの?」
じゃあ、とダミアンはブルースの足元に座った。
「俺もしばらくここにいる。父さんも座ってよ」
ブルースはしばしダミアンを見詰めたあと、手を引かれ、ゆっくりと地べたに座った。ふっと息を吐いくと疲れが一気に押し寄せた。

ダミアンはポツポツと学校であった他愛のない話を始めた。行方不明になる前のブルースとは、普段こんな時間はとれなかった。気がつけば、ダミアンはテンション高めで捲し立てるように話していた。一人でずっと話している自分に気づきダミアンはブルースの顔を窺うようにして見た。
「父さんごめん……オレの話つまらなかったよね?」
ブルースは首を横に振った。
「本当に?まだ話してもいい?」
ブルースはダミアンを見ると、ほんの少し微笑みを浮かべ頷いた。ダミアンは目を輝かせ、興奮に立ち上がった。
「じゃあ、スナックと飲み物持ってくるよ!!父さんはコーヒーでいい?!それとも紅茶?いいや、どっちも持ってくる!ちょっと待ってて!」

ダミアンが猛ダッシュでダイニングに行くと丁度、ディックがいた。彼はダミアン用のお菓子を用意していたところだった。
「あっおかえり、ダミアン。今日は珍しく遅かったな」
ディックはダミアンを可愛がることで日々のストレスを癒していた。共にするお茶の時間は彼にとって貴重なものだったのだが……ダミアンはそんなディックを気にも留めず、コーヒーと紅茶を適当に用意し始めた。
「ダミアン、コーヒー飲むのか?そんな遣り方じゃ、ただの豆汁だよ」
「じゃあグレイソンが淹れろよ。はやく、はやく、あと紅茶も!」
「はいはい、茶葉は?」
「何でもいい!はやく、はやくっ」
急かされるままディックは、コーヒーと紅茶を作った。その間に、ダミアンはお菓子をトレーに乗せていた。
「ダミ?」
ダミアンはコーヒーと紅茶を受けとると、サンキュという短い礼だけ残し、トレーを持ち走り去った。
「ダミアン?!」

ディックは玄関前で座り込む二人の後ろ姿を見て、とてつもない苛立ちが沸き上がるのを感じた。ダミアンにはブルースを、ブルースにはダミアンを奪われたように感じた。こんなにも尽しているのに、自分だけが退け者であり、悪者になっている。叫び出したい気持ちになり、ディックはその場を離れた。

1時間後、再び訪れたディックは、若干苛立ちの籠る声でダミアンに近づいた。ダミアンはまだブルースに喋り続けていた。一方のブルースは時折頷きながら、静かにダミアンの声に耳を傾けていた。
「ダミアン、食い過ぎるとディナーが入らなくなるぞ」
「わかった!それでね、父さん」
「早くダイニングに来い!」
「……わかった」
ダミアンは去りゆくディックの背中を見て、溜息を零した。
「父さん、もうそろそろ飯食べに行こう。グレイソンの奴、怒りだすぞ」
ブルースは首を横に振った。
「もしかして父さん、外に出たいの?」
「……ァル、フ…」
「あぁ…うん…アルフレッド…ね…。アルフは入院してるよ。だからまだ絶対安静でしばらくは帰って来れないんだ。アルフが帰って来た時に、父さんがやせ細ってたら驚いてまた入院しちゃうよ。だから、今はごはん食べに行こう。ねぇ父さん」

ダミアンに手を引かれながらダイニングに入ってきたブルースを見てディックは顔を歪めた。本来ならば喜ばしいことなのだが、気に喰わなかった。自分の言うことは全く聞かないブルースが憎たらしかった。


<無知>

ディックだけでなく、ブルースのストレスも高まっており、日に日に不穏も強くなっていた。その夜、ディックは用事がありダミアンの部屋に行ったが、もぬけの殻だった。
「ダミアン?」
まさかと思いブルースの部屋に行くと、二人は同じベッドで眠っていた。ディックは思いきりダミアンを引き剥がした。
「んーグレイソン、何すんだよ」
「ダミアン、何してるんだ!」
「はぁ?みりゃわかるだろ」
騒ぎにブルースも目覚めたが、ディックに睨まれ固まった。
「突然なんだよ、っいてぇ!グレイソン!引っ張るな」
ディックは喋っている途中のダミアンの腕を強引に引き部屋から出た。ブルースは唖然とそれを見ていた。
「おいっ、おいグレイソン!おい!」
「何もされなかった?!怪我は?変なことは?」
「変なのはお前だよ!!父さんと一緒に寝てただけだ!!」
「アレは今までのブルースじゃないんだぞ」
「だからなんだよ。父さんは父さんだ!」
「ダミ!万が一のことがあったらどうするんだ!二度とブルースの部屋に入るな!」
「グレイソン……何で……そんなに父さんのこと嫌うんだよ…」
「ちがっ、そうじゃない。ダミ、わかってくれ。アルフレッドも怪我をした。今のブルースは正気じゃない!危険なんだ!お前まで傷付けられたくない」
「怪我なんて気にしない。傷付きたくないのは、グレイソンがだろ!」
「ダミアン……」
「お前知らないだろ。父さんが日中窓の外見てること。俺が帰ってきて手を振ったら振り返してくれること。寝てるとき魘されてること。お前とトッドが嫌なこと言った時、あとで泣いてたこと!俺が行くと笑ってくれること!名前……呼んでくれること……っ!お前、知らないだろっ……父さんがどれだけ……っ傷付いてるか知らないだろッ!!」
ダミアンは零れた涙を袖で乱暴に拭うと、自室へと走り去っていった。


<骨折>

「虫っ!!皮膚の下にいる!!」
「いない!!幻覚だ!!いいから部屋に戻れ!ブルース、危ないってば!ちょっいい加減にしろよ!」
ブルースが幻覚に騒ぎだしたのは丁度階段の近くだった。常であれば放っておくディックであったが、場所が場所なだけに部屋に連れ戻そうとしていた。しかしブルースはなかなか従ってくれず、騒ぎを聞き付けたダミアンが駆けつけてきた。
「ダミ、お前は部屋に戻ってろ!」
「嫌だ!」
ダミアンはブルースにまとわりつくと、宥めようと声をかけた。
「父さん落ち着ついて。大丈夫、虫とってあげるから、一回部屋に戻ろう」
「ぎゃあああ!食べてるっ!やだぁああ!!」
ブルースが自分の腕や首をかきむしり、皮膚に血が滲んだ。
「ブルース!虫なんてどこにもいない!いるわけないだろ!!いいからこっち来い!」
ディックが無理矢理引きずろうとしたのを嫌がり思いきりブルースが身を引いた。丁度その時、背後にダミアンがいた。ダミアンは押し飛ばされ、階段を転げ落ちた。
「ダミアンっ!!」
ディックの悲鳴のような声が響き、ブルースも唖然とした。
「ぃってぇ…っ」
ダミアンの右手首が赤く腫れ上ってきた。ディックは階段を駆け降り、ダミアンを抱き起こした。ブルースも心配そうに近寄ったが、ディックが鋭く睨みつけた。
「来るな!!なんでダミアンがっ……」
ディックはダミアンを抱き上げ、病院に電話をかけに立ち去った。救急病院へダミアンを連れていく手筈を整えると、まだ階段に座り込んでいたブルースの手首を柱にくくり付け、動けれないようにした。手首が欝血するほどの強さで縛られている中、ブルースは不安に顔を歪ませていたが、ディックの無言の圧力に言えなかった。

救急病院での診断は骨折だった。

二人は朝方に帰ってきた。痛み止めの副作用により眠ってしまったダミアンをベッドに寝かせたあと、ディックはブルースの元へ向かった。
ブルースは柱に縛られた腕を伸ばしきったまま、ぐったりと床に崩れていた。手首は紐で擦れ、肘の方にまで血が垂れていた。誰もいない真夜中の屋敷はブルースにとって恐ろしいものがあり、必死に外そうともがいた結果だった。ディックが縄を外している間、ブルースが薄らと目を覚ました。
「部屋に戻れ」
ディックはそれだけ言うと、縄をその場に落とし手首の治療はせずに立ち去った。彼にはブルースの傷よりもダミアンの方が心配だった。ブルースは痛む腕をぶら下げ、虚ろな表情で部屋に戻った。

それ以後、ディックはダミアンとブルースを一層、引き離すようになった。そしてブルース自身も、ダミアンに怪我をさせたくないという思いと、ディックへの恐怖があり、ダミアンに近づくことを避けるようになった。
しかしそうとは知らないダミアンは、ブルースに避けられ日増しに元気が無くなっていった。自分が怪我をしたせいで、ブルースが気負いをしていると感じていた。『何でもない、俺は平気だ』とアピールするかのように、ダミアンが積極的にブルースに関わろうとした矢先のことだった。

ダミアンがブルースにしがみ付こうとした丁度その時、ディックが通りがかったのだ。怒られる事に怯えたブルースが反射的にダミアン突き飛ばした。軽く尻餅をついただけであったが、ディックは今までにないほどに怒り、駆け寄って来るなりブルースの顔を殴った。そして壁に叩きつけると、腹を殴りつけた。呆気にとられていたダミアンは、切れた口から血を流しているブルースを見て我に返った。彼はディックに飛びかかった。
「なんで、やめろよ!!グレイソンっ!こんな、のっ、もうやだ!!ぅあ゛ぁぁああ」
ダミアンが大泣きを始めた。ディックはブルースから手を離すとダミアンを抱き締めた。床に座り込んだブルースは、泣き出しそうな顔でダミアンを眺めていた。


<別離>

ディックの手続きの元、ダミアンはアカデミーの寮に入り、そこでしばらく生活することになった。
別れの日、
「父さん、あげる…」
ダミアンが渡したのは毛むくじゃらの赤い牛のような人形だった。ブルースは何も言わずそれを受け取った。ダミアンがそっと抱きつこうとするとブルースは怯えたように後退し、そのまま自室へと行ってしまった。ダミアンは寂しそうな顔でそれを見送った。
「ダミアン、迎えの車が来たぞ」
「グレイソン…父さんを責めないで」
「でもブルースのせいで怪我をしたんだぞ。ブルースはもっと反省すべきだ」
「でも……仕方ないよ」
「仕方なくなんてない!!今のブルースは馬鹿なんだから、ちゃんと教えないと!!」
叫ぶように声を荒げるディックに対し、ティムはそれとは対照的に酷く落ち着いた、けれども冷たくよく通る声を出した。
「それに関しては僕もクソガキに賛成」
「ティム、何を言って…」
「ディックこそ何を言ってるのか僕には理解できない。ブルースを責めて、傷つけて、追い詰めて…何がしたいの?ブルースを助けたいんでしょ?それなら違うんじゃないの?彼がおかしくなったのは、一方的な肉体的、精神的暴力によるものだ。今、ディックがしている事となんら変わらない。ディックが力でブルースを捩じ伏せ言い聞かせようとする内は、彼の地獄は終わらない」
言葉を失い固まるディックにダミアンはそっと触れると「俺、もう行くよ」と迎えに来た車に乗り込み屋敷を後にした。

「この屋敷にはもうブルースとディックと僕しかいない。僕は正直、ディックも限界だと思う。役割を交代しよう」
「駄目だ」
「このままじゃ共倒れだ。一人で抱え込まないで、今度は僕がブルースの面倒をみる」
「無理だ!ティム、お前が思ってるほど、簡単なことじゃないんだ!」
「ディック、おかしくなってるよ。正常な判断が出来てない。少し休んだほうがいい」
「もしティムまで傷つけられたらっ、僕は…僕は……っ」
「わかってるよ。だからコンも呼ぼうと思う。現実的に考えて、僕らだけでどうにかするのは無理だ。助けを借りよう」
「そんなの以ての外だ!!部外者にブルースの事を知らせるな」
「…そういうところが問題なんだと思うよ。ブルースを見せるのが恥ずかしいんでしょ?」
「あーっ、くそ!そうだよ、全部僕が悪いんだ!ブルースが一向に良くならないのも、こんな事になっちゃったのも、家族がバラバラになっていくのも、全部何もかも僕が悪いんだ!」
「ディック、そんなこと言ってない。ディックは悪くないし、ブルースが悪いわけでもないよ」
「っ、ごめん、何も言わないでくれ。わかってるんだ、そんなことっ、でも、今は何も受け入れられない!ティム、悪いんだけど、僕は役割を交代する気はない!ティムに手伝ってもらう気もない!!しばらく放っておいてくれ!!」

ティムがブルースの部屋に行くと、彼は窓の外を眺めていた。
「ブルース、外見てたの?…あぁ、ダミアンを見送ってたんだね。……あのね…僕も度々はここに来るけれど、毎日来るのは難しいんだ…」
ブルースは弾かれるようにしてティムを見た。丸々と見開かれた瞳がじわりと潤んだ。
「違うよ、ブルースのことが嫌いになったわけじゃないよ。それはダミアンと一緒。そうじゃなくてね、しばらくディックと二人で過ごしてみよう?二人だけの方がディックも落ち着けるかも知れない。人目を気にしなくてもいいから、ブルースに素直に接することができるかもしれないし…。大丈夫、度々顔を出すからね。何かあったらすぐに言って」
笑顔のティムに、ブルースは頷かなかった。その瞳は不安気に揺れていた。


<投薬>

二人だけでの共同生活は、序盤から不穏な空気を醸し出していた。互いの表情は常に険しく、ディックは命令口調で端的に指示をし、ブルースはそれに対し過剰な程に拒絶と反抗をした。二人の距離は縮むどころか、溝は深まるばかりだった。

「薬」
机に置かれた錠剤を無視して、ブルースが立ち上がった。
「ブルース!死にたくないなら飲んで」
ディックはそれでも無視するブルースの腕を掴み椅子に座らせ直した。
「あんたのために言ってるんだぞ!飲めよ!」
錠剤を無理矢理口に押し込むと、ブルースがディックの指を噛んだ。
「いった!!」
一瞬、エイズのことが頭を過り、ディックは指をきつく握り血を絞り出すと、床に振った。ぴっと血が飛んだ。ブルースは反射的にやってしまった己の行為に罪悪感を感じ、ディックの指に触れようとしたが、ディックは弾かれたように手を振りかざしブルースを叩こうとした。ブルースがびくりと身構え、ディックは思い留まった。
「くっそ!もういい!勝手にしろ!!」
ディックは薬を床に薙ぎ払うと、部屋から出て行った。

ディックは自室に籠って、物をさんざ凪ぎ払うと、ベッドに突っ伏して泣いた。行き場のない怒りと虚しさと表現できない感情が、胸を渦巻き、張り裂けそうだった。
しばらくして落ち着いてきたディックは自分のした事の危険性に気が付きブルースを捜し始めた。

投薬の制限時間は個体差があるため厳密には出ていないが30分〜2時間と幅がある。薬に対する免疫が出来てしまえば、薬の種類を変えなければいけない。ブルースの余命を左右する薬なのだ。

捜し始めてから30分が経過し、ブルースが見つからないことに本格的にディックは焦り始めた。
「ブルースっっ!ブルースどこだ!?どこにいる!?!」
監視カメラをタブレットで確認しながらあらゆる部屋を回ったが、ブルースはどこにもいなかった。ケイブは厳重に閉めており、屋敷の外に出れば警報が鳴る。どこかにはいるはずなのはわかっていたが、刻々と迫りくる時間にディックは焦り始めた。屋敷を何周もし、ディックは自分の部屋の前まで戻ってきて目を見開いた。扉の前でブルースが立っていたからだ。
「ブルース!!捜したんだぞ!!どこにいたんだ!!」
ブルースの手には、床に落とした薬が乗せられていた。ディックは責めたくなる気持ちを押し殺し、薬を飲ませた。
「もう戻っていい。行けよ」
ブルースは自分が噛んだディックの指先をじっと見た後、踵を返し出ていった。


<爪切>

久し振りに訪れたティムはブルースの爪が伸びていることに気が付いた。爪切りを手にしているティムと廊下で遇い、ディックは眉を潜めた。
「それ…」
「ブルースの爪を切るんだよ」
「駄目だ。危ない」
「あれだけ伸びてたら、ブルースの方が危ないよ。怪我しちゃう」
「爪を切ってる最中に暴れたらどうするんだ!僕が今度やるからいいよ」
「今度っていつ?嫌がってさせてくれないんでしょ?僕が代わりにやる」
「…じゃあ僕も行く」
「ディックは休んでて。いつも大変なんだから、僕がいる時は僕に任せてよ」
「でもティムに万が一のことがあったら」
「ないよ。ほら、行って。心配ならお得意の監視カメラでも見ててよ」
「ティム…」

ティムは部屋に入るなり、その光景に驚いた。ブルースが部屋の暗い四隅に身体を縮ませ座っていたからだ。ブルースは睨みつけながら顔を上げたが、いたのがティムだった事に驚いたようで、三角だった目を丸くさせた。
「ブルース、来たよ」
ブルースは目線を逸らすと俯いた。
「元気だった?ん?」
ティムは静かに傍に行くと、ブルースと同じ目線になるよう床に座り、にこりと笑いかけたが、ブルースは笑わなかった。
「伸びてきたから爪切りしよう」
ティムが優しくブルースの手を取った。
「やあ゛ぁあ゛っ!!!」
突然ブルースは叫ぶと、ティムの手を弾き、胸元で両手を固めた。威嚇する猫のように身体を丸め、ふーふーと荒い息をついているブルースを前にしティムは困った。ディックが爪を切れなかったのも理解ができた。
「大丈夫だよ、爪を切るだけだから」と声をかけ、もう一度ブルースの手を触ろうとすると、再びブルースは身体を捩って声を上げた。
「う〜ん…まずいなぁ。このままじゃディックが乗り込んできちゃう。ねぇ、ブルース、どうして嫌なの?ん?理由を教えてくれたら凄く嬉しいなぁ」

ブルースは前々から自分が“穢れているのではないか”と思っていたが、先日ディックの指に噛みついた時の彼の嫌悪するような反応で確信した。アルフレッドもダミアンも自分が触れたから怪我をした。
“大事なものには触っちゃいけない”
それがブルースの学習したことだった。

黙っているブルースに、ティムはもう一度「お願いだ、ブルース。教えて欲しい」と頼み、辛抱強く待った。10分間が経ち、ティムが諦めかけたその時だった。ブルースが呟くように答えた。
「…き、たない」
ティムは自分の手を見ると「わかった。見てて」と言い、洗面所に行き手を洗って戻ってきた。
「ほら、奇麗だよ」
手を差し出し微笑むティムに、ブルースは顔を顰めると首を横に振った。
「…僕の手の事じゃなくて?じゃあ爪切りのこと?」
ブルースはまたも横に振った。何かに気がついたティムの表情が一気に青ざめた。
「もしかして…ブルースの手がってこと…?」
頷いたブルースを見て、ティムはショックで息が詰まった。引き攣る様に大きく呼吸をすると、ブルースの手を無理矢理握りしめた。驚いたブルースが声を出すよりも前に、ティムは噛みつくような勢いで声を張った。
「そんなことない!!そんなこと絶対にない!!ブルースの手は、大きくて温かくて優しい!!僕の大好きな手だよ!世界で一番美しい手だ!!」
ティムの目には涙が浮かんでいた。その真剣な顔を見て、ブルースは力を抜いた。ティムはブルースの手の甲を愛しそうに撫でると、爪を切り始めた。静かな部屋に、ぱちぱちと爪を切る音と、ティムが鼻を啜る音が響いた。


<幻覚>

「やめろって言われたら一回でやめろ!!何度も言わせるな!」
ディックの怒鳴り声に、ブルースは負けじと物を投げ付けた。その腕を取りディックが睨み付けた。
「子供じゃないんだ!!文句があるなら口で言えよ!!」
ブルースは唇を噛み締めると、腕を振りほどき部屋に閉じ籠った。
「あー、そうかよ!じゃあ、ずっとそこにいろ!!」

その晩、ブルースは何時ものように夕方から落ち着きを無くしはじめ、夜には徘徊を始めた。特にアルフレッドやダミアンの部屋の前を高頻度に来ていた。監視カメラでブルースの行動をみていたディックは、夜12時になったところでブルースの元に行った。
「皆いない。部屋に行って、もう寝ろ」
ディックの言葉を無視し、ブルースは逆方向に歩き出した。
「おい、こっちだろ!自分の部屋までわかんなくなったのか!勘弁してくれよ……」
なかば強引にブルースの部屋に連れていき、ベッドに寝かせ部屋を出た。

シャワーを浴び、寝る前にタブレットを確認したディックはぎょっとした。ブルースがまた廊下を徘徊していたからだけでなく、その手に料理ナイフが握られていたからだ。ディックは急いで部屋を出た。
「ブルース、何してるんだ!それ、危ないから返して」
ブルースは胸元に強くナイフを抱くと、必死で首を横に降った。その顔は青白く、何かに怯えているようだったが、凶器を持っていることに気が向き、ディックは気がついてやれなかった。
彼は武器を取り上げると、近くの壺にそれを投げ入れた。取りに行こうとするブルースの腕を無理矢理引っ張り、部屋に連れていった。
「何時だと思ってんだよ、これで今日も寝られなかったら5日連続だっ」
「やだっ、はな、せ、やぁああ゛!いるっ、いる!!」
「ナイフなんていらない!!台所の戸棚に鍵つけなきゃ……っはぁ……仕事が増えた」
苛立ちながらもディックはブルースをベッドに入れ布団をかけてやったが、ブルースは飛び起きるとディックを追い越し部屋を出た。追いかけ捕まえれば、時刻はすでに深夜2時を過ぎていた。
「ったく!いい加減にしてくれよ!」
「はぁはぁっ!……いるっ、いるから!」
「ナイフなんていらないって言ってんだろ!部屋に戻れ!!」
「いるっ!!!」
ディックの限界だった。ディックはブルースを部屋に投げ入れると外鍵をかけた。
「これで誰も入らない」
「だ、出し、てっ出して、出せぇえ!ぎゃああぁあっ、開けて!!いる!!」
「っるさいなぁ!」
ディックは苛立ちを込めドアを蹴るとその場を去た。
「ひ…っ、一人にしないで!出してっ、ああぁああ゛あ゛っ!!やだあ゛あ゛ぁぁあ!アルフっ、アルフレッド!!」
暗闇によりブルースのパニック症状は更に強まった。今のブルースには電気のリモコンが使えず、明かりを灯すことすらできなかった。
「助けて助けて助けて助けて助けて……」
部屋の隅から恐ろしい何かが迫ってくる幻覚を見ている今、ブルースの恐怖は計り知れないものだった。絶叫しドアをひっ掻いて開けようとした。

翌朝、ドアを開けたディックはぎょっとした。扉の前でうずくまっているブルースの指は血まみれになっており爪が数枚めくれていたからだ。
可哀想という感情よりも、こうまでする狂気に近いものを感じた。
ディックの気配に目をさましたブルースが、縋るように手を伸ばしたが、ディックは無意識に後ずさっていた。ブルースは明らかに傷ついた顔で手を床に落ろした。自分のとった行動にショックをうけたのはディックの方もだった。
「ご、ごめん、怪我の手当するからね」
ディックはすぐさま床に膝をつくと、ブルースの手をとろうとしたが、ブルースは唸るようにして叫ぶとディックを押し飛ばし扉を締めた。
たかが扉一枚の厚さが、途方もなく分厚いものに感じ、ディックは顔を覆い突っ伏した。その向こう側で同じようにブルースがうずくまっていることを互いに知らずに。


<画面>

ブルースの両手指に巻かれた絆創膏を眺め、ティムは暗い表情を浮かべた。ディックは先程ブルースの指先の治療をどうにか終え、疲労により仮眠をとっていた。
「ブルース、痛い?」
ブルースはティムを睨むと顔を逸らし、指を背に隠した。昨晩あった出来事を監視カメラで確認してきたティムには、ブルースが怒っている理由も、ディックが疲れ切っている理由もわかっていた。
あえてその事に触れるのはやめ、ティムはブルースの前にタブレットPCを置いた。画面に向かってティムは「ハァイ」と手を振ると、画面をブルースに向けた。そこには白と木目張りの高級そうな病室にいるアルフレッドが映っていた。

『ブルース様』
ブルースの表情から苛立ちが消え、驚いたように目が丸く見開かれた。ティムはそっと席を外した。
画面の向こうでアルフレッドはずっとにこやかに頬笑んだままだった。
『坊ちゃま……』
アルフレッドが画面に手を伸ばした。ブルースも静かに手を伸ばし画面に触れた。モニター越しに二人の指が合わさった。ブルースは何も言わず、感情の読めない顔でただじっと画面を見つめていた。アルフレッドが口を開いたが、そこから言葉は出てこなかった。

アルフレッドの胸中には言いたい事が沢山あった。元気ですか?ご飯は食べていますか?みんなとうまくやっていますか?眠れていますか?あなたの事をいつも考えていますよ。
けれどもアルフレッドの口から突いて出てきたのは、そのどれでもなかった。

『愛していますよ』

ブルースの無表情がぴくりと揺れ、崩れた。彼はくしゃりと顔を歪めると、固く絞った眼元から涙を零し始めた。俯き、耐える様に肩を震わせている主の姿を見ながら、アルフレッドはずっと微笑んでいた。
本当であれば抱き締めて貴方のせいではないですよと撫でてやりたかった。けれども遠くにいる自分がブルースにしてやれることは、ほんの些細な安心を与えてやることだけだった。流れ出そうな涙を押し殺し、アルフレッドは微笑み続けた。それがどれだけ辛いことなのかは当人にしかわからない事だ。


<噛癖>

アルフレッドに逢いたいという要求が強くなってしまったブルースは、屋敷から出ようとする事が増えた。それを力付くで止めようとしてくるディックの行動に、更にブルースは興奮し暴れた。

ある日、振り回した腕が窓ガラスを割り、腕からおびただしい量の血が溢れ出した。ディックの中で驚きの後に沸いたのは、心配ではなく苛立ちだった。
「何してんだよ!そこに座ってろ!心配かけさせたいとでも思ったのか?!ったく!!」
その言葉を聞いてブルースは顔を歪めた。ディックが感染予防のプラスチック手袋をはめ、医療キッドを持ってきたが、彼は手当を拒絶した。治療しようと伸ばした手を払い落され、ディックは怒りを抑えきれず、包帯をブルースの顔にぶつけた。
「何なんだよ!じゃあ自分ですればいいだろ!」
転がった包帯を見て、ブルースの気管は煮えた湯を飲み込んだように熱くなり痛みすらも感じた。立ち去るディックの後姿を睨みつけながら、包帯を投げつけようとして…止めた。
ブルースは包帯を静かに床に落すと、外に向かって発散できなくなったフラストレーションを吐き出すかのように、流血している腕に噛みついた。鉄っぽい味に舌が麻痺するにつれ、不思議なことに心が落ち着いた。

ブルースの腕の噛み痕は日に日に増えていった。
「ねぇディック…ブルースの腕……」
「あぁ、あれ。噛むのやめろって何度も言ってるんだけど最近よく噛むんだよ」
「他の箇所は?自傷行為してたりするの?」
「さぁ、噛んでるとこ見るのは、大体腕ばかりだけど。ナイフとかカッターとか刃物になりそうなものは全部片付けたし、まぁ手元にあったとしても、リストカット的なことは頭が足りないから出来ないんじゃない?」
ディックのどこか投げやりな言葉に、ティムは眉を顰めたが何も言わなかった。ディックを責めて追い詰めることはしたくなかった上、そうすると皺寄せがブルースに行く事も理解してのことだった。

ブルースが噛み癖を覚えたのには理由があった。それは彼なりの逃避であり、自己解決方法でもあった。癇癪を起こしたくなったら喚く前に自分の腕に噛みつく。幻覚を見ても噛んで耐える。傍から見れば気味の悪い自傷行為だが、ブルースにとってはディックとの争いを避けるための最善の策だった。心に感じる痛みを、身体に変換して与えることで、苦痛が幾分か和らぐ事にブルースは気が付いてしまった。


<絶食>

水分や薬を除いて、ブルースが固形物を食べる頻度は一日に一回あれば良い方だった。
ディックとの仲は劣悪を極めており、二人が顔を合わせる機会は夜間の不穏行動以外は、ほぼ無かった。食事の場に出てこなくなり、一日中部屋に引き籠っているブルースを連れ出す事も面倒になり、ディックは食事を持ってきては、殆ど減らないトレーをまた持って帰るようになっていた。
苛立ちを顔と態度に露しながら現れるディックの存在は、ブルースにとって嫌悪と恐怖の存在だった。そんな相手の持ってくる食事は食べたくなかった。日に日に口を付ける事は減り、特に何か粗相をし、ディックに怒られた時は全く手をつけなかった。
テレビ電話を通してアルフレッドから「飲むように」と言われた薬はディックの監視下の元、極力飲んではいたが、本当であればそれすらも口にはしたくなかった。

だが絶食が二日続いたある日、ブルースはどうしても腹が減り、夜間にキッチンに現れた。生活感を感じる冷蔵庫はどうしてか開けたくないという心理が働き、いくつか施錠されていない棚を開け、適当なものを食べた。どれも美味しいとは感じず、手当たり次第に開けては一口、二口食べ放置した。ブルースがその場から離れようとした時、ディックが来た。

夜間のセキュリティ設定で、ブルースが自室の扉を通過し、再入室するまでの時間が、ある一定を過ぎるとディックの元にアラームが鳴る仕組みにしていた。それが鳴るとディックは監視カメラでブルースの姿を捜し、放置するか、連れ戻すかの選択をするのだが、今回ばかりは映った映像に驚き飛んできた。
「人が作ったものは食わないくせに、何なんだよ?!」
ブルースの顔がひくりと歪んだ。ディックは音を立てながら片付けを始めると、戸棚に鍵をつけはじめた。その光景を目の当たりにし、ブルースの中で更に嫌悪感が強くなった。
翌朝自室に置かれた食事も手を付けなかった。ブルースなりの反抗だった。子供じみた行為ではあるが、短絡的で感情的な行動しか今のブルースには思いつけなかった。


<娼婦>

ティムはブルースの傍にしゃがみ込み、彼を覗い込んだ。その後ろではディックが監視するかのように立っていた。
「ブルース…痩せたねぇ」
「何も食べようとしないからな。それよりも、ティムこそ痩せただろ?」
「ん…?あぁ、少しだけね」
最近のティムは会社経営とゴッサム警備であまり屋敷に来れなくなっていた。時折、顔を出してはブルースとディックの様子を見て急いで仕事に戻っていた。ブルースの代わりに弟が奔走している様を見るのはディックにとって辛く、そしてブルースに対して苛立つ要因の一つになっていた。
「お疲れ様。ティム、何か用意してあげるからダイニングにおいで」
「ブルースも行こう?」
顔を背けたブルースを見て「どうせ食べないよ」とディックは吐き捨てるように言い部屋を出て行った。そんなディックの後ろ姿を、ティムは困ったように見つめた。

ティムと二人きりになると、ブルースはすり寄ってきた。純粋な甘えとは違う雰囲気をもったそれが何を意味しているかティムは瞬時に理解をした。
体と交換で物を得る。
おかしくされてからのブルースは、薬に限らず食糧やそれ以外のすべても、生きる為に必要なものはそうして得ていた。それしか方法がなかったブルースのことを想うと、ティムの胸はどうしようも無く苦しくなった。
「そんなことしなくてもいいんだよ。ここはブルースの家なんだから」
ブルースは絶望的な顔を浮かべた。ティムの言葉など頭に入らなかった。理解出来たのは、身体を受け取ろうとしないティムの態度から、ご飯は貰えないということだけだった。苛立ちをぶつけるように自身の指を齧り始めたブルースに驚き、ティムは止めたが、ブルースは睨むとティムを押し退けた。
「ブルース、駄目だ、やめて!ねぇ、ご飯なら今、持ってくるから!」
「どうした?」
ティムが着いてこないのに気付き戻って来たディックには、二人の行動が争っているように見えた。ディックは間に飛んで入ると、ブルースを壁に叩きつけ手首を捻りあげた。今や細くなったブルースの手首が折れそうに軋んだ。弟を傷つけられる事に過剰なほどナーバスになっているディックの剣幕には恐ろしいものがあり、ブルースは無抵抗のままディックを凝視した。
「ディック違うんだ!!やめて!!ブルースが悪いわけじゃないんだ!!彼はお腹が空いてて、でも僕の言い方が悪くて混乱させてしまったんだけなんだ」
「……どうせ、誘惑でもしようとしたんだろ?」
ディックの言い方にティムは固まった。
「娼婦かよっ!」
ディックは乱暴にブルースの手首を放すと「何か持ってくる」と言い残し部屋を出ていった。
「……ブ、ブルース、大丈夫?」
ブルースは膝を抱え蹲り、顔を見せなくなってしまった。
しばらくしてディックが戻ってきた。トレーにはティムとブルース分の軽食が乗っていた。飲み物を忘れたと、ディックが取りに行っている最中、ティムはサンドイッチをブルースに差し出した。おいしいよと笑みを浮かべると、ブルースはおずおずと受け取った。
だが先ほどの出来事でパニックになっているブルースには、食欲は失せており、妙な気持ち悪さがうずまいていた。ゆっくりと咀嚼し飲み込んだが、次の瞬間、ストレスから来る胃痙攣で吐き戻してしまった。自分のした粗相にブルースは青ざめた。怒るディックの顔が頭に浮かんだ。頭が真っ白になったブルースは、心配し声をかけてくるティムと目を合わせることもできず固まっていた。
「ブルース大丈夫?!胃がびっくりしたんだね、落ちついて、深呼吸して。今は?気持ち悪い?」
ティムが震えているブルースの手を握ろうとすると、彼は弾かれたように離れ、バスルームに逃げた。しばらくしてディックがジュースを持ってきた。
「…………ブルースは?」
「バスルームにいる」
「ティム、何してるの?」
「片付け」
「……吐いたの?」
「意図的じゃない」
「はぁ……」
「ディック、やっぱり役割を交代しよう」
「無理だ」
「ディックも限界だし、ブルースも限界だ!」
「そんなもんとっくに迎えてる。限界とかそういう話じゃないんだよ」
「じゃあ何?!」
「何だっていいだろ」
「なんでそんなに頑なんだよ!」
「うるさいなっ!ブルースに幻滅するのは僕だけでいいからだ!!」
ディックは弟達の為にも、ブルースの為にも、いい思い出で昔の姿を保ってやりたかった。過去と今との違いに打ちのめされるのは自分だけで十分だった。傷つくのも、全て自分だけが負いたかった。
「でもディック……っ、だからって今のブルースを蔑ろにしてもいいのか!?」
「あれはもうブルースじゃない」
「確かに僕らの知ってるブルースじゃないかも知れない。だけどブルースだ!」
「アレに関わったら気が狂う!どうしてわかってくれないんだよ!!失うのはブルースだけで十分だ!アレにもう家族は奪わせない!」
「ディック何を言って……」
「もういい、帰ってくれ!!頼むからっ!ティム…頼むよ」
奥歯を噛み締め、苛立ちを堪えているディックを目の当たりにし、ティムは何も言えなくなった。


<返却>

その晩、薬を拒否したブルースとディックはまたも揉めた。

日中にティムと口論した事がディックの中で胸をもやつかせていた。その原因となったブルースに腹が立っていたのもあった。いつもよりも刺々しいディックが、薬とコップを乱暴に机に置いた。
「早く飲んで」
ブルースは横目でそれを見ると無視をした。
「一人で飲めるだろ!また指を噛まれるのはこりごりだ」
ディックは舌打ちをすると急かす様に机を叩いた。触発されたように、テーブルの上のものを薙ぎ払おうとしたブルースの手を、ディックが素早く押さえた。
「ただ薬を飲むだけなのに、なんでこんなに煩わすんだよ!!あんたの為の薬なだけで、お前が飲まなくたって僕は困りはしないんだからな!!」
あー…もう好きにしろと、ディックが手を放した。ブルースはコップを薙ぎ払うのをやめ、言いようのない苛立ちとストレスから自分の首に手を掛けた。それは最近、彼自身が見つけた方法だった。軽く意識が飛び朦朧とするこれは、一時だけではあるが嫌な気分を遠のかせてくれた。締め過ぎて意識を完全に飛ばした事も数回あったが、ブルースにとっては心の痛みを感じるよりも大分マシだった。

ブルースの奇行にディックは驚きと怒りが沸いた。彼が何をしたいのか、なんのためにこんなことをするのか、全く理解が出来なかった。気持ち悪いという思いと、遠まわしに自分を否定されているような気がし、ディックはブルースの腕を掴むと、首から引き離そうとした。
それでも手を離そうとしないブルースに腹が立ち、ディックはブルースの横面を叩いた。衝撃で手は外れたが、今度はブルースがディック顔を殴った。反射的にディックはカウンターを繰り出し、ブルースは転げた。やりすぎたとディックが思ったのも束の間、ブルースはディックを蹴ってきた。ディックの中の反省は掻き消え、猛烈な怒りと悲しみが沸いた。こんなにしてやってるのにという思いが、ディックの胸を占めた。恨めしい目で睨み上げてくるブルースの胸倉を掴み、ディックは覆い被さるようにして吠えた。

「ぼくが嫌いか?!憎いか?!僕だって……僕だって……あんたなんか嫌いだっ!!彼を返せ……僕のブルースを返せよ!!」

ブルースがディックの手を引き離そうと引っ掻いた。
「つっ!!お前なんか……お前なんかっ!!」
ディックは振り上げた拳をぶるぶると震わせたあと、ブルースを突き放した。
「お前のせいで、みんな消えた!!お前が全部奪ったんだ!!!」
ディックはテーブルの上のコップを床に叩きつけると、部屋を出ていった。

残された部屋でブルースは脱力し、床に寝転んだ。目線の先には散乱した水とガラスの破片がキラキラと妙に美しく輝いていた。触れようと伸ばした指を緩く動かし続けて、不思議に思った。これは誰の手だろうかと。
“返せよ”
頭の奥の方でディックの言葉が反響していた。青年が求めていたものを返せれるのならば、返してやりたかった。だが、ブルースには何を返してやればいいのか、何を自分が持っているのか、わからなかった。

瞬きをすれば、ガラスが滲んでテールランプのような丸い光が見えた。ブルースには何もかもが、もうわからなかった。生きている意味すらも、わからなかった。指先はいつしか止まり、ただ静かに伸びていた。


<施設>

口論があってから、ティムは出張で屋敷に来ることが出来なかった。その間、ディックはティムからの連絡に素っ気なく返し、終いには出なくなった。痺れを切らしたティムが早めに出張を投げ出し帰ってきた。
「ディック、どういうこと?」
「○○施設にいれた」
「前回から5日も経ってないのに」
「5日もあれば十分過ぎるほど色々起きるんだよ」
ティムはため息をつきながら、タブレットPCで施設を検索した。病院のホームページはクリーンな印象であり、微笑む院長の倫理論がつらつらと書かれていた。それを一通り見た後、ティムは探偵としての検索作業に入った。しばらくしてティムは顔をあげると、じとっとした目でディックを見た。
「…かなりブラックみたいだけど?」
「でも即入居が可能だった。他は待機人数が多くて無理」
「異常なほど事故での死亡退院者が多いんだけど。まさかブルースを死なせたいの?」
「……あの状態じゃ生きてるとは言えない」
「それ本気で言ってるならディックのこと殺すよ」
「じゃあ半殺しにしてくれ」
ティムは盛大に溜息をつくと席を立った。
「一緒に行くよ」

訪れた施設の受付で、ティムは一悶着起こしていた。
「事前に連絡がない場合の面会が禁止ってどういうことですか?そんなの聞いた事がありません。何故面会が駄目なのか納得できる理由で話して下さい」
受付が困り果てた頃、別の職員が現れ面会の許可を出した。
面会室に通され、1時間待った。
職員に連れられ現れたブルースは、右目に眼帯をし、マスクを着け、唯一顔の中で覆われていない左目はどんよりと濁っていた。二人の前に座らされたブルースは、ティムがいくら呼びかけても、俯き目線も合わさず、何も喋らなかった。ディックは先ほどから時計を確認したり、貧乏ゆすりをして落ち着かないようだった。
「ねぇ、ブルース右目はどうしたの?」
「自傷行為で傷つきました」
ブルースの横に付き添っている職員が答えた。
「なんで腕に包帯を巻いてるの?ブルース、教えて」
「自傷行為で傷つきました」
「あんたに聞いてない。僕はブルースに聞いてるの。ねぇ、ブルース」
「ティム、もういいよ。元気なの確認できたし、帰ろう」
「はぁ?これのどこが元気なの?!せめてマスク外して」
「風邪を引いてますので外せれません」
「だからあんたに聞いてないっつーの!!」
時間ですと職員に連れていかれる間際、ブルースはちらりとディックを見た。立ち止まったブルースの身体を押し、職員は彼を連れていった。

帰りの車中
「絶対におかしい、あんなの!ブルース目線すら合わせなかったよ!」
「元々、合わなかったじゃないか」
「違う!!合わせようとしてなかった!!絶対何か脅されてるんだよ!!夜中、忍び込むから」
「…………」
ハンドルを握るディックの手が震えていることにティムは気付いていた。


<虐待>

ブルースのように見目も良く、意思表出も少なく、家族の厄介者という条件は新しい玩具として非常に適していた。素行の悪い一部職員の間で、ブルースは虐待の対象となり、性欲の捌け口ともなった。

初日の深夜に集団で暴行されレイプされてから、ブルースは抵抗する気力を無くした。
昼間でも職員はブルースをデイルームから物置に連れ込むと、フェラをさせたり、壁際に立たせバックで突くこともあった。小窓から見える外は雲1つない青空で、その光景は現状の悲惨さを浮き立たせていた。ようやく終わったと開放されれば、連絡を受けた他の職員が変わって入ってくることもあった。
薬物もなしに立て続けに行われるセックスには、快楽など存在せず、ブルースにとっては拷問でしかなかった。立っていられず膝を曲げると殴られ、時には顔面を蹴られて鼻血が出た。顔は腫れ、眼帯とマスクが必需品となった。食事は食べれる状況ではなくなり、コスト面からも紙パックジュースだけになった。

とある晩、大事にしてたダミアンからもらったぬいぐるみを千切られブルースが怒ると、壁に頭を何度もぶつけられ気を失った。目覚めれば、遊ばれ精液と血で汚れた自分の裸体と、無惨にバラけたぬいぐるみがあった。

オナニーを強制される事もあったが、ぺニスは勿論たたなかった。不能だと囃され、四肢を押さえられ好き勝手に弄られるのは、痛みよりも屈辱が勝った。嫌がるブルースを、馬鹿にするかのように男達は笑った。

遊びは加減を知らないかのようにヒートアップしていった。
「気持ちいいってよがらせた奴が勝ちな」
「……ぃ、つっ!」
「ほら、今言っただろ」
「いてぇつったんだろーよ」
ベッドの上で犯されているブルースの隣では、酒とスナックを広げ、ポータブルゲームをしている男数人がいた。賭けとしてビール缶が男達の間を行ったり来たりしていた。
「してもらってんのに、いてぇとかワガママだろ。痛いってのはこういう事だ」
尿道口にペンを突き刺され、ブルースは思わず声を上げた。慌てた男がブルースを黙らせるため枕で顔を押さえたが、行き過ぎたそれで窒息しブルースは気を飛ばした。

気が付いた時、ブルースはシャワー室で冷水を浴びせられていた。2人が彼を抑え込み、もう一人が延々と冷水をかけ続けていた。程無くして完全に目覚めたブルースは降り注ぐ水に溺れかけ呼吸を荒げた。その必死な様に男達は笑った。
氷のように冷えたブルースの身体を回し抱き、中は熱いだのと笑う声を、ブルースは遠い意識の中で聴いていた。全身も脳味噌も麻酔に掛かっているような気分だった。揺さぶられながら考えていたのは、自分は誰で何なのだろうかということだった。漠然とした不安が沸いた。

一人ベッドの上でうずくまりながら、ブルースは慎重に呼吸をした。真綿で首を絞められているかのように、日毎、呼吸ができなくなっていた。吸って、吐いて、吸って、吐いて……止まればいいと思いながら息をし続ける事の意味がわからなかった。
この施設に連れてこられた際、『じゃあ』とディックが顔も見ずに投げ捨てるように残した言葉が思い起こされた。
途端、呼吸が出来なくなりブルースは胸をかきむしって30分ほどのたうち回った。半狂乱で汗だくになり、死ぬかのように意識が遠のいた。



ディックとティムの面会のあと、ブルースは酷い仕打ちを受けた。ティムの態度に腹が立った職員の腹いせだった。ブルースが泡を吹いて痙攣してもなお行為は止まらなかった。
「ちんこ大好きなんだろ、なぁ?」
「美味いなら旨いって言えよ。おら、もっとケツ広げろよ」
朦朧とする意織の中で、ブルースは頬笑む両親の顔を見上げていた。『ブルース』と優しく名を呼ばれ手を伸ばしたが、その幼い手は唐突に影から伸びてきた手によって捕まれ引っ張られた。
瞬きをすれば現実が待っていた。
見知らぬ若者がブルースを貫き、その手を握り上げていたのだ。幻覚と現実との区別が付かず錯乱したブルースが身悶えると男は容赦なく顔面を殴り、鼻血が飛んだ。
「汚ねぇな!犯されることもまともに出来ねぇなら、まじで生きてる意味ねーな」
「もうそろそろ殺る?」
「わざわざ殺さなくとも、このぺースならあと数日で死ぬっしょ」
「今日来てた息子さぁ、あんなに噛みつくんだったら連れ帰れよって思わねぇ?」
「あれだろ、でけぇ方が連れてきたんだろ。そもそも養子ってのもな。ゲイのこじれで捨てられたんだろ」
「廃棄処分かよ!ウケんな!なぁ、おい聞いてた?お前ねぇ、捨てられたの。要らねぇ存在なんだよ。俺達に突かれてるだけマシと思えよ」
ブルースの頭を小突き、男達が笑った。

理不尽に搾取され続け、まるで感情がないモノのように扱われる事。自分が生きている事で皆が傷つき、誰も喜んではくれない事。本能的に感じていた事を言葉として突きつけられ、ついにブルースは耐えきれなくなった。心臓が破れ血が溢れるように、目から涙が溢れ、口からは声が漏れた。
「ぁ…は…、ぁは、は、は」
引き攣る様な呼吸で泣きながら笑い始めたブルースを男逹は気持ち悪がった。
「どうする?頭おかしくなっちゃった?」
「元々おかしいだろ、きめぇんだけど」
「おい黙れよ!ぶっ殺すぞ!!!」
「いっそスナッフビデオ撮って売っちゃうか?!」
「いいね!どうやって殺す?切断系とか?」
浴びせられる罵倒に反応しブルースは声を押し殺すように自身の腕を噛んだ。喰い千切る強さで噛み締めれば、痛みで少し現実を忘れることができた。優しい父と母の手を取りたいと、きつく目を閉じ願った。連れて逝って欲しいと。


<奪還>

ブルースの部屋に辿り着いたディックとティムは驚愕に固まった。職員と思しき男3人が、ブルースに暴力を振るい犯していたからだ。そんな状況の中でもブルースは目を閉じ腕を噛んでおり、抵抗の一つもしていなかった。
「つーか、なにこいつ、なんで腕噛んでんの?馬鹿?」
「馬鹿だからここにいるんだろ?」
「まじで殺すなら外の物置に連れてってバラそうぜ」
「おい、聞いてたか?今から屠殺場に行くぞ」
「まだ犯され足りないか?ん?じゃあ、尻に鉄パイプぶっ刺して臓物掻き混ぜるとかどうよ」
「あはは!グロいな」
タバコを吹かしていた男が、まだ紅く色付いている吸い殻をブルースの耳に捩じ込んだ。
「ッぅ!」
それは余りにも短い悲鳴だった。

ディックとティムは身体中の血が沸騰するのを感じた。二人は部屋に侵入すると、男達が悲鳴を上げる間もない素早さで口を塞ぎ、できるだけ強い痛みを与え気を失わせた。
二人目を捩じ伏せたティムは、ディックがとうに意識を失っている相手の首から手を離していないことに気が付いた。
「ディック?!ダメだって、それ以上やったら死んじゃう!」
「ぇ……あ、あぁ」
我に返るとディックは手を放した。

「ブルース、ブルース!!もう大丈夫だからね!」
ティムはブルースの身体を起こし手近にあった汚れたタオルケットに包んだ。鼻血と涙を垂らした痣だらけの顔を拭ってやりながら、ティムは自分の顔が歪まないように耐えた。気を抜けば、背後で倒れている男逹を呪い殺しそうな形相になりそうだった。
「ブルース、立てる?」
身に起きた展開についていけず、意織が朦朧としているブルースは立たされた瞬間にへたりとベッドに座り込んだ。
「ディック、僕じゃ彼を背負えない」
ディックがブルースに触れようと手を伸ばすと、ブルースはハッと身体をびくつかせ拒否するような動きをとった。ディックがショックで手を止めると、ブルースはよたよたとマットレスの下に腕を突っ込み始めた。
「嘘だろ…ここに居たいのか…?」
呟いたディックの声に「そんな」とティムが声を上げた。
ブルースが腕をベッドから引き抜くと、そこには綿と布切れが握られていた。それはダミアンがあげた人形の一部だった。男達にぼろぼろにされたそれをブルースはベッドに隠していた。「帰ったら、作り直してあげるからね」そうティムが言うと、ようやくブルースは二人に焦点を合わせた。

ディックにおぶさっている間、ブルースはぎゅっとディックにしがみ付いていた。回された左腕の歯痕から血が滲んでいるのを見て、ディックは少しの怒りが沸いていた。
「ブルース…、こんな時に言うのもあれだけど、襲われた時に抵抗しないと、あのままじゃ殺されてたかも知れないんだぞ!」
「そうだね。あのねブルース、恐くて痛かったのはわかるよ。でもね今回に限らず、もしも危険な目にあった時、僕等がすぐに助けてあげられるわけじゃないんだ。助けを呼ぶなり、自分で自分の身を守らないといけないんだよ」

ブルースは二人の言葉に顔を歪めた。助けなど、どこにも無かった。だからこそ腕を噛んで耐えたというのに、それを責められ、わけがわからないのと同時に酷く辛かった。言葉をうまく紡ぐことができない代わりに涙が零れそうになった。無気力感に苛まれ、ディックに回していたブルースの手が急に緩くなった。
「ブルース!しっかり掴まってて!」
先程の事態の興奮から、気が立ってるディックの口調は若干きつかった。それが更にブルースの心を沈ませ、車に到着してもなかなか乗り込もうとしない彼に二人は困った。
「帰るんだよブルース!ここに置いていかれたいのか?!」
その言葉にブルースは耳を押さえ、その場にしゃがみこんだ。
「ディック、落ち着いて!ブルース、帰ろうよ、ねぇ…」

帰りの車中、後部座席に横たわっているブルースは、指を噛み辛さを紛らわそうとしていた。その頬には涙が伝っていた。ティムは助手席からミラーでじっとその光景を見ていた。ちらりと横を見れば、ディックも同じことをしていた。
「ディック…運転変わるよ」
「いや大丈夫…何かしてないと…落ち着かないから」
「そう…」







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