<値段>

ブルース・ウェインが消息を絶って約2年。
最初は騒いだマスコミも次第に次のネタへと移り、もう一切テレビでも雑誌でもブルースの名前が出なくなった頃、彼はようやく見つかった。

そこは東南アジアの危険地帯。街中に淀んだ空気が漂い、道脇に平然と死体が転がっているような場所にある違法の風俗店だった。
お飾り程度の布による区切りがされているそこでは、男と女、男と男、大人と子供、様々な組み合わせでのセックスが寿司詰め状態でなされていた。何でもありを謳い文句にしているだけあり、売られている人間の中には、流血や欠損している者も少なくはなかった。

喘ぎ声や奇声、時に悲鳴が飛び交う劣悪な環境のそこで、ブルースは股を広げ、男の逸物を迎え入れていた。あの逞しかった筋肉は削げ落ち、目は虚ろ、涎を垂らす崩れた表情。かの有名な大富豪であるとは誰も気が付かないみすぼらしい姿に変貌していたが、ディックにはわかった。この2年間、死に物狂いで捜してきた敬愛する人を見誤るわけなどなかった。

ディックは男を羽交い締めにした。唐突に始まった暴力に客の一部は逃げ出したが、大抵の客は囃したり、我関せずと行為を続けていた。こういう事は日常茶飯事だったからだ。ディックの元にいかつい男達が近づいてきた。しかし戦闘体制に入ったディックの目の前に突き出されたのはナイフやピストルではなく、空の掌だった。男はそれを軽く上下に動かすと「幾ラデ買ウ?」と訛った英語を発した。
「買うだと…?」
「ソレ商品」
「人身売買は犯罪だぞ」
背後に控えていた男達が、凶器を取り出し散らつかせてきた。このレベルのチンピラを倒すのに苦はなかったが、こんな状態のブルースを連れて逃げるにはいささか厳しい環境であり、乱発された銃により周囲に被害が広がるのも避けたかった。ディックは怒りを飲み込んだ。
「幾らだ?」
「45000」
「は?」
信じられない数字にディックが聞き返すと、その驚きを別の意味に捉えた男は、ブルースを横目で見ると溜息をついた。
「ワカッタ、40000デイイ」
「よ…4万…? か…彼の一回の値段は幾らだ?」
「20」
ディックは言葉を失った。
この国の通貨をドルに換金すれば、それは5ドルにも満たない値段だった。



ブルースが自力で歩けたのは精々100m程度だった。店を出てしばらくいったところでブルースは崩れる様に座り込み、ディックもその横で呆然と立ち尽くした。愛する人の値段、そして買ったという事実がディックの心を激しく傷つけていた。通行人に押し飛ばされ我に返ったディックは、ブルースを背負いメインストリートまで出ると、比較的治安のいい街まで移動しホテルに入った。

浴室に湯を張りタオルを渡したが、壁に身をもたれかけ放心している状態のブルースは、どう見ても一人で入れるレベルではなかった。ディックが服を脱がそうとすると途端にブルースが暴れた。
「大丈夫、大丈夫だよ、ブルース。お風呂に入るだけだから」
ブルースはディックの腕から逃げ出そうと身をよじり始めたが、体力がなく抵抗は数分と続かなかった。ブルースは泥人形のように床に横たわり動かなくなった。

薄暗い世界での生活に慣れ過ぎていたブルースにとって浴室の照明は明る過ぎた。彼はディックに身体を洗われている間、ずっと手で目を覆っていた。明るく照らされた肌には、バットマン時代についたものではない傷跡が大量にあり、腕には注射跡が無数にあった。背骨と肋骨が浮き出ている様は、見ていて辛いものがあった。

夜、ディックは一向に言葉を発さないブルースを心配をしていた。そして先程からベッドに横になっているブルースがモゾモゾとせわしなく動いていることも気になっていた。暗闇の中、ブルースはむくりと起き上がると、よたついた動きでディックのベッドに乗り上げシーツを捲ってきた。
「ブルース?どうしたの…?」
ディックがいくら呼び掛けてもブルースの瞳は焦点が合わず、どこか別の世界に入っているようだった。ブルースは唐突にディックの頬を手で挟むとキスをしてきた。それも舌を入れての。ディックとブルースはそういう関係ではない。親子もしくは兄弟のような関係だ。ディックは突然のことにしばし固まっていたが、ブルースがディックの下腹部をまさぐり始めたのに驚き、勢いよく突き飛ばした。ブルースは明らかに顔を歪めて、ぼそりと何かを呟いた。
「くれ……」
「は?」
「クスリ……何でもするから…」
「何をしたとしても薬物はあげられない」
ディックがぴしゃりと言い放つと、ブルースのそれまで蕩けていた瞳が一変した。血走った瞳で彼を睨むと首を絞めてきた。ディックは脚でブルースの腰をホールドし反動をつけ一回りすると、マウントポジションをとり、ブルースの両腕を頭上でまとめあげた。ブルースが牙を剥き唸り叫んだ。隣の部屋からドンと壁を叩く音がした。
「ブルース、静かにして…頼むよ」
だがブルースは叫び声を止めなかった。隣室からの壁打ちは一層激しくなり、ディックの下で暴れ狂うブルースの奇声にも嫌気がさした。
「黙れ!!!」
恐ろしい剣幕でディックが怒鳴りつけると、途端にブルースの顔が青ざめた。
「あ……ぃ、やっ………痛い……の…ぃや、…っごめ
、…さ…い…」
目を閉じ呪文のように許しを乞うブルースを見て、ディックは泣きたくなった。痛いのなど平気だったあのブルースが、なにをどうしてこんな風になってしまったのか。この状態のブルースをゴッサムに連れ帰ってよいものか…朝が来るのが怖かった。


<帰宅>

ウェイン邸ではアルフレッドとティムが帰りを待っていた。到着早々、ブルースは他の何にも目もくれず、アルフレッドの傍に行くと立ち止まりそれ以上は何もしなかった。表情は一切変わらず言葉も発さなかった。
「おかえりなさいませ、ブルース様」
ブルースの身体がぴくりと震えた。ブルースはアルフレッドの顔を見ることなく、そのまま庭先へ歩き出した。みなブルースの行動がわからず呆気にとられていた。ディックがいち早く我に返り、追いかけ腕を掴むとブルースが甲高い声で叫び、その場にしゃがみ込んだ。アルフレッドが傍によるとブルースは目線だけを彼の靴先に向けた。アルフレッドは地べたに腰を降ろし、ブルースに寄り添うように座った。
「リチャード様しばらく二人にしていただけますか?」
「え…でもアルフレッド…、今のブルースは…危険なんだ…」
「えぇ、承知の上です」
途端、ブルースは襲い掛かるかのようにアルフレッドにしがみつくと、彼の腹に顔を埋め静かになった。大量の卵が入った籠を抱えるようにアルフレッドは大事そうにブルースを抱えた。

唖然としてその光景を眺めていたディックの背後からそっとティムが近づいた。
「ディック、おかえり。大変だったみたいだね」
「あぁ…ティム、サポートありがとう。会社のことも全部任せてごめん」
ティムは肩を竦めると「何人か働かない蟻を辞めさせたけどね」と軽く笑った。
ブルース不在によりウェイン産業は一時荒れ、フォックスの努力だけでは支えきれず株価も大幅に下落したが、ティムの暗躍により今は元に近いレベルまで経営を取り戻していた。あくまでも代理という形で任についたティムは、けして表舞台には出ず、上層部にしか存在を知られていなかったが、彼の敏腕さにみな舌を巻き、彼を“若造”と馬鹿にした者も今では認めるほどだった。

ディックも会社経営に少しは首を突っ込んだが、彼の思考は会社経営には向かず、ブルース捜索とゴッサム警備に力を注ぐことにしていた。この2年で、ゴッサムを護る者はバットマンからナイトウィングとロビンに変わった。不思議な事に最狂の敵であるジョーカーもこの2年、ぴたりと姿を露さなくなった。リドラーやトゥーフェイスなども初期の頃は現れていたが、ここ最近では一般市民も知っているような悪役達はなりを潜めてしまった。かわりにボスの不在をいい事に、マフィアやチンピラなど小物勢がうじゃうじゃと湧き出ているのが現状だった。

ディックとティムに限らず、ブルース不在の間、駒鳥達のあり形は若干変わっていた。ダミアンは日中はアカデミーに通い、夜はロビンとして活躍。ジェイソンは仲間と共に国外を旅しながらブルースの情報を集め、定期的にゴッサムに戻ってはアルフレッドと長男の顔を見て、そんな長男を悩ませるマフィアを1、2個壊滅させて、また行方をくらますというパターンだった。

「ダミアンは?」
「アカデミーに行ってる。今日帰ってくるって伝えたら絶対学校に行かないと思ったから、帰国日は伝えなかった。ジェイソンはいつも通りの行方知れず」
「そう…」
ディックが一番懸念していたのはダミアンの事だった。今のブルースを見て、恐らく最もショックを受けるのはダミアンだと彼は思っていた。
「ディック、ブルースはどう?」
ディックは渋い顔を浮かべ、首を横に振った。
「そう……当然かもね。ブルースがいた売春宿から経由ルートを辿ったら、至る所をタライ回しにされる前は、中東でセックススレイプだった期間もあるみたい…。身代金要求が来なかったからブルース・ウェインだと知らずに誘拐したんだろうね。普通だったらもう死んでる。殺されてなくて良かったよ」
ティムの言葉にディックは返答ができなかった。屋敷に帰ってきたブルースが、今までのブルースとは違う事をディックが一番わかっていたからだ。殺されなくて良かったと、心から思えない自分がいた。


<欲求>

「父さんっ!!」
ダミアンはスクールバックを投げ捨てるとブルースに抱きついた。二年の月日はダミアンの背丈を少し大きくさせ、逆にブルースが縮んだように見えさせた。ダミアンはブルースの腹部に顔を埋めたまま、ぐずぐずと鼻を鳴らした。ブルースが行方不明になってから初めて少年は人前で泣いた。
一方で、ブルースは無表情のままで、その焦点はダミアンに向いておらずただ宙を漂っていた。両手は息子の背に回されることがなく、両脇からだらりと垂れ下っているだけだった。マネキンのようなその姿に、ディックは恐怖すら感じた。

夕食の席でのこと、ブルースは皿の上の物を突いたり、混ぜたりはするが、一向に口に運ぼうとはしなかった。皆、彼の様子のおかしさに気が付き、食卓は不気味なほど静まり返った。
ブルースはコップの水を手にとると、それを皿の上に注ぎ始めた。あっという間に水が溢れた。慌ててディックが止め、ティムはアルフレッドの名を叫びながら布巾を取りに台所に走り、ダミアンは固まっていた。
ブルースは立ち上がると、ティムと共にやってきたアルフレッドにしがみ付いた。
「ぃ…ない、ぃらなぃ、…すり…ほしぃ…くす、り」
苦しそうに頼み始めたブルースの様子は、先ほどまでの無表情とは変わり、悲愴に歪んでいた。ディックはダミアンにその姿を見せまいと、ブルースを別の部屋に連れて行こうとしたが、アルフレッドから引き離されそうになったブルースはディックを押し退け暴れ始めた。ティムは飛んできたブルースの蹴りからアルフレッドを護り、ディックはブルースを羽がい締めにすると力付くで別室に連れ込んだ。困惑しながらも近づいてきたダミアンに「来るな」と一喝を入れディックは扉を閉めた。

ブルースを放すと彼はすぐさまディックの首を絞めてきた。邪魔をするなとでも言いたげな、ぎらついた瞳は、家族に向ける目とは思えないものだった。ブルースは犬歯を剥き出しにし、奥歯をぎりぎりと鳴らした。
激しい物音に、ティムが強行的に部屋に入れば、峰打ちを与えられたブルースが気絶しており、ディックはその横で首を押さえ荒く息をついていた。



覚せい剤の欲求は日に日に強まり、それに伴って暴力衝動も増えていった。ディックがブルースを怒れば、それに対して更に癇癪を起こすという悪循環に陥っていた。屋敷内にあった高価な調度品も数点壊れ、止めようとするディックもアルフレッドも打ち身が増えた。昼夜逆転の上、ほぼ寝ないブルースの監視をするのは楽なことではなかった。

ティムが仕事を切り上げ屋敷に顔を出すと、丁度外に出ようとしていたブルースをディックが止めていた。「出掛ける」と喚くブルースにディックが怒鳴っていた。
「どうしたの!?」
「ブルースが言う事を聞かない!!」
「ブルース、もう夕食の時間だよ。出掛けるのは今度にしよう、ね」
「やだ!!うるさい!!」
ディックの腕を振り解こうとするブルースを、二人でどうにか引き摺り玄関から引き離した。ブルースは諦めたのか、蹲り「うぅ」と声を漏らしていた。その横で、ディックもへたりと座り込んだ。その姿は明らかに疲労していた。ティムがどう声をかけるか悩んでいると、ブルースは立ち上がりよろよろと別方向に歩き出した。
「ディックは休んでて、僕が付いてく」
辿り着いた先はアルフレッドのところだった。ブルースは料理支度をしているアルフレッドの背中にぴたりとくっつくと、その肩に顔を埋めた。アルフレッドは手を後ろに回し優しくブルースの背中を叩いた。

覚せい剤の後遺症は酷いもので、易怒性や幻覚などは抗精神薬で多少は抑えられたとしても、人格退行を治す画期的なものは未だ存在していない。
自己表現が幼くなってしまったブルースを受け入れることに最も抵抗があったのはディックだった。
アルフレッドは元より、意外なことにダミアンも“父親”としてどんなブルースでも受け入れ、そして護る覚悟が出来ていた。ティムは現状を理解し、受け入れるしかないと割り切っていた。
だが、バットマンとしてのブルースを最も深く知っているディックには今のブルースは到底受け入れられるものではなかった。だからこそ彼はブルースの面倒をみることで彼を理解しようと必死になっていた。


<陽性>

アルフレッドの診察でブルースのあまりに酷い身体状況が発覚した。腎臓が1つなくなっていたのだ。臓器売買によって失われた臓器…だが不幸にも得てしまったものもあった。
アルフレッドは何度も何度も検査記録を見返し、数日間に渡って再検査をした。そして、どうしようもないその結果に人知れず泣いた。夜も寝ずに泣いて、泣いて、泣き通した。だが彼は強かった。哀しむよりも何をどうすべきかを知っていた。

アルフレッドはブルースを殆ど怒らなかった。駄目な事は駄目だと、子供の頃ブルースをしつけてきたアルフレッドだったが、今は子供に対するよりも優しく穏やかに接していた。
料理を散らかされても、部屋を荒されても、自分自身が理不尽な暴力を振られようとも、アルフレッドは許容した。ただ一つ、決まった時間に飲ませる薬があり、それだけはブルースが嫌がったとしても頑なに譲らなかった。

ある日、ブルースが怪我をした。錯乱して割ったコップを踏んだのだ。近くにいたディックがブルースを座らせ、血の付いた破片を片付ている時だった。アルフレッドが恐ろしい剣幕で駆け付けてきた。
「触ってはいけません!!」
その鋭い声にディックは驚いた。アルフレッドはディックの手をとると、念入りに何かを確かめ、鋭い目で見た。
「怪我はしていませんね?」
「え…?僕はしてないけど」
「流水で手を洗った後、念の為この薬を飲んで下さい」
「え…なにこれ」
「あとでケイブに」
アルフレッドはそう告げると、困惑しているディックを無視し、手早くブルースの処置をし、コップの破片を片付け始めた。

今は閉じているバットケイブの医療エリア。
アルフレッドはディックの血液を採取し、それを検査機器に入れた。先程とは一転して穏やかな語り口調で「最新機器は早くて正確で素晴らしいですね」とアルフレッドは語った。ディックはアルフレッドが何を言わんとしているのかがわからず、ただ黙って立っていた。しばらくして出てきた紙を見て、アルフレッドは安著の溜息を零すと、ディックにそれを渡した。
様々な数値が出ているそれは、一般指標と比べ、若干数値が低かったが、別段目を引く箇所はなかった。
「貧血気味ですよ。明日から食事の鉄分量を増やしましょう。それと念の為、今後も定期的に検査を行いましょう」
「え…うん…ありがとう。ねぇ、アルフ…話ってこれ?」
アルフレッドは微笑むと、棚から別の用紙を取り出した。
「リチャード様、こちらを」
ディックの持つ検査用紙と同じ形式だったが、その数値は明らかにディックのものよりも粗悪だった。それが誰の結果なのかは、名前を聞かずともディックには理解できた。一通り目を通し、ディックはある点に気が付いた。薄い用紙を持つ指先がふるふると震え出した。
「…ウ…ソ…だろ…?」
「陽性です」
「エ…イズ…なの…?」
「いえ、発症してはいないのでHIVキャリアの段階です。抗HIV薬を服用し、血中の免疫数も正常値に戻りましたし、HIVウィルス量も測定不能値までになりました。これで他者へ感染するリスクは劇的に減っております。日常生活を共にする分にはなんら危険はありません。それと」
「ちょっと待って、アルフ!待って!!ごめん、僕、パニックになってる…どういうこと、ブルースはエイズってこと?死ぬってこと?!」
「発症してはいませんのでエイズではありません。今の医療では抗レトロウィルス薬を服用していれば寿命は40年ほど伸ばせますし、尚早に世間ではまだ出回っていない新薬も入手致します。それに近年の研究では遺伝子編集ツールCRISPR/Cas9を使用しHIV-1のDNAをターゲティングすることでウィルス除去に成功したという研究も出ていますし、数年後には画期的な治療法がみつ」
「アルフ!!!も、もういいよ、うん、もう、なんか…ごめん…わけわかんなくて…ホントに…なんで…彼が…っなん、でっ、どうして……こんなことに……っうっ…うぅ…っ」
泣き出したディックの肩をアルフレッドが撫でた。
「申し訳ありません、辛い事実をお聞かせして」
「ううん、いいんだ…っ」
「リチャード様、ご提案が御座います。ブルース様の身の回りの事は全て私がみます。感染リスクは低い状態ですが、万一皆様に感染してはいけませんので」
ディックは首を横に振り目を擦ると、意思の強い瞳でアルフレッドを見た。
「それは断るよ。僕等は家族だ。きっとみんな同じ事を言うと思う」
「えぇ、そうおっしゃると思いました…。ですから関わり方だけはくれぐれも」
「わかった。血液媒介に気を付けるのと、もし可能性があった場合はすぐに抗HIV薬を飲む。みんなには僕から伝えるよ」
アルフレッドが頭を下げた。ディックはアルフレッドに抱きついた。
「ごめんね…アルフ。…ずっと辛かったよね…一人で抱えさせてごめんね…」
「…っ、ぃいえ…、私は大丈夫です…大丈夫。あの方の…っ苦しみを考えたらっ」
しばらく時間を置いてから戻りたいと言うディックをケイブに置いて、アルフレッドは屋敷に戻った。

夜の零時近く、アルフレッドが明日の朝食の準備をしていると、徘徊していたブルースが傍の椅子に座った。
「坊ちゃま、ホットミルクを飲みますか?」
アルフレッドは呼び方を昔ながらのものにした。二人だけの時はそう呼ぶ事にしていた。
ブルースは机につっ伏しながらも、目だけはアルフレッドの後ろ姿を追っていた。温かなミルクをカップに注ぎ、アルフレッドが振り返ると、ブルースは寝息を立てて眠っていた。アルフレッドはその髪を優しく撫で、つむじにキスを落とした。痩せた背中を護るようにブランケットを掛けてやり隣に座ると、ブルースが目覚めるまでの30分間、ポタージュ用の芋の皮むきを始めた。それはブルースが口にする数少ない料理の一つだった。


<拒食>

食事の席。ブルースは5分以上ずっと噛み続けていたステーキを皿の上に吐き出した。その行動に驚いたのは帰国したばかりのジェイソンだけであった。
アルフレッドは皿を片付けると、ブルースの手前にポタージュを置きその手にスプーンを持たせた。ブルースはポタージュを数回かき混ぜたあと、スプーンを縦にして舐め、またかき混ぜては舐めるという奇行を繰り返した。一向にポタージュは減らず、ブルースの手だけが汚れていった。
「おい、ディック!注意しろよ!」
「注意したところで治らないし、場合によっては食べなくなる。まだ舐めてるだけマシだよ」
「はぁ?」
「トッドうるせぇぞ。父さんの好きにさせろよ」
「はぁあ!?」
ブルースはパンに手を伸ばすと、それを千切ってポタージュに放り込み、全てを入れ終わると器を両手で持った。
何をするのかとジェイソンが呆気にとられていると、ディックが「待った」とブルースの手を押さえた。ブルースはディックをきつく睨むと「うぅぅ」と唸るような声を出し、器を引張り返そうとした。
「駄目!!」
怒鳴るディックの声にブルースは肩をびくつかせると、おずおずと手を離し席を立った。食堂から出ていったブルースの後を、ダミアンが追いかけていった。
「今の何だったんだよ…」
「器を逆さまにしようとしたんだよ」
「あ?」
「今までにも何回かしてる」
「なんのために!?」
「さぁね。知る由もないよ。今の彼は狂ってるんだ。何を考えてるのか想像もできない。食べ物で遊ぶだけじゃなく、後で嘔吐してることも多いよ。それもわざと」
「まじかよ…。あのブルースが…アルフレッドが作った飯を粗末にするなんて…」
「だからもう僕等の知ってるブルースじゃないんだよ…彼は誘拐された時に殺されたんだ」
その時だった。
「父さんっ!!!」
食器の割れる音に続いて、ダミアンの声が響いた。
急いでディックとジェイソンが駆け付けると、廊下には料理が散乱し、床に尻もちをついているアルフレッドとそんな彼を起こそうとしているダミアンがいた。
「何があったんだ!?大丈夫か!?」
「ブルース様とぶつかっただけです」
ジェイソンがアルフレッドを起こし、ディックはダミアンを問い詰めた。
「ダミアン、本当!?」
「……父さんが…」
「ダミアン様」とアルフレッドが強めに声を出した。
「……ぶつかっただけだ」
「意図的に?」
ディックが鋭い声で聞き返した。
「いいえ、事故です。ブルース様が向ってきていることに気が付かなかった私が悪いのです」
はっきりとしないダミアンの表情に、二人がブルースを庇い立てしていることは明白だった。癇癪を起こしたブルースが意図的にアルフレッドを突き飛ばしたのが事実だった。
「あいつに謝らせる」
「おやめください、ジェイソン様」
「アルフレッドを突き飛ばしたんだぞ!!」
「お願いです、どうか、どうか……っ」
アルフレッドの必死な姿に、ジェイソンは渋々引き下がった。


<夜這>

その晩、泊まっていく事にしたジェイソンの部屋に、真夜中ブルースが訪れた。安全な場所だと認識しているウェイン邸だからこそ、ジェイソンは深い眠りについていた。ぎしりとベッドが軋み、身体が重くなってようやく彼は目をあけた。そこには月明かりに照らされて、妖艶に見下ろしているブルースがいた。
その姿は、かつてジェイソンがスラムで暮らしていた頃に見てきた娼婦と重なった。伸びてきた手はジェイソンの首筋を撫で、胸を擦り、脇腹を滑り、そして下腹部の更に下に辿り着いた。
「コレ…」
「なっ……」
「したら…薬…」
ブルースの雰囲気に飲まれ、ジェイソンの思考回路は止まっていた。ブルースが服を脱ぎ上半身を曝け出した。白い肌に幾重もの傷痕が浮いていた。どうすることも出来ず、ジェイソンはぼうっとそれを眺めていたが、ブルースがジェイソンの服に手をかけたところで我に返った。
「ど、け!!」
ジェイソンが起き上がった反動でブルースはベッドから転げ落ちそうになった。すかさずジェイソンが支えると、ブルースはその体にしがみつき、あろうことか唇にキスをしてきた。ジェイソンが驚きの余り手を離せば、ブルースは落下し床に頭をぶつけた。うずくまるブルースをよそに、ジェイソンは慌てて部屋を飛び出した。

しばらくして、ジェイソンがディックを伴って戻ってくると、薬をもらえなかった事に憤慨したブルースが部屋をめちゃくちゃに荒らしていた。
ジェイソンが唖然としたのは、そんなブルースよりも、それを恐ろしい剣幕で叱りつけ始めたディックの姿だった。ディックはブルースの腕を掴むと「薬」と喚くブルースの頬を一発張り「ベッドにくくりつけてやる!」とブルースを引張り部屋を出ていった。

その後、廊下でディックと揉み合うブルースの声を聞きつけ、アルフレッドが道具を持って駆けつけた。疑似摂取として生理食塩水を注射したが、ブルースは大量に唾を吐き全身を震わせた後「違う」と喚きアルフレッドを殴り暴れた。
「執事に何しやがるっ!」
ジェイソンとディックがブルースを取り押さえ、アルフレッドは仕方がなく用意していた麻酔を打った。バットマン時代から免疫がついてきているブルースには、常人以上に量を投与せねばならず、アルフレッドとしては打ちたくないものだったが、ここまで興奮状態にあるブルースを薬もなしに落ちつかせるのは無理な話だった。ブルースは10秒ほど暴れた末、脱力した。居た堪れない主人の姿に、アルフレッドは眼尻に涙を滲ませた。


<理由>

ブルースが食べないのにはわけがあった。覚せい剤の後遺症や投薬による食欲減退のほかに、食と性は関係があると言われるように、ブルースの中で食べるという事は性行為を思い起こさせ、トラウマを蘇らせる事だった。気分の悪くなるその行為を、家族と食卓の場でする。胸が悪くなるのは仕方がなかった。だが、それを口で説明できないブルースの食拒否は、傍から見ればただの気違った行動もしくは反抗的な態度にしか見えなかった。

一方で、ジェイソンは貧しい生活を経験している。食に飢えていた子供時代を過ごしたのは、バットファミリーの中では唯一彼だけだった。ゆえにジェイソンは“飢え”がいかに辛いのかを知っていた。だからこそ、ブルースが食事を台無しにする事に腹が立っていた。その上、健気に尽してくれる執事に対して傍若無人な態度でいることも更にジェイソンを苛立たせた。

翌日の昼食でのこと、ジェイソンは禍々しい雰囲気を出していた。その空気を察知し、ブルースはちらちらとジェイソンの方を見ていた。食べるところを見られていることにストレスを感じ、ブルースは途中で食具を投げ出すと、怒りを表現するかのように皿をジェイソンの方に押しやった。ガシャガシャとグラスが倒れ、食具が床に落ちた。ジェイソンはブルースの腕を強く掴んだ。
「こんな事するくらいなら、いっそ喰わなきゃいいじゃねぇか!!お前の為を思ってアルフレッドが作ってくれてるんだぞ!!」
「ジェイソン様!!」
咎めるようにアルフレッドが声を出した。
ダミアンは手元のパンを思い切りジェイソンの顔に投げつけた。
「てめぇが、父さんを睨んでたからだろ!!大体いつまでいるんだ!!失せろ、トッド!!!」
「このクソガキ!!」
「ダミアン!ジェイソン!落ちつけ!!」
「おやめ下さい!!」
荒げた声が飛び交う空間の中、ブルースの頭は混乱を極めていた。
ブルースは思い切り腕をひっぱり返そうとしたが、ジェイソンの力強さによってそれは叶わなかった。ブルースは空いている手で近くのウォーターボトルを掴むと、振り翳した。頭にぶつかれば大けがは免れない凶器である。だがブルースの腕はそれ以上は動かなかった。
ディックはボトルを奪い取ると「危ないだろ!!」とブルースを叱りつけた。その最中、ダミアンはフォークとナイフをジェイソンの腕に目掛けて放った。それを避けるためにジェイソンの腕がブルースから離れた隙に、ブルースはディックを押しのけ走り去った。
怒りが収まらないジェイソンが追いかけようとすると、ダミアンが前に立ちはだかった。
両者の喧嘩を止めるのに、ディックもアルフレッドもかなりの労力を要した。

何とか二人を落ち着かせたあと、ディックはブルースの自室へと向かった。彼はそこで布団に包まっていた。
「ブルース、元はといえばお前のせいであぁなったんだからな。夜はちゃんと食べろよ」
しかし夕食の席にブルースは現れず、ディックだけでなく、ダミアンやアルフレッドが彼を連れ出そうとしても食卓にブルースが座ることは叶わなかった。

その日の深夜、アルフレッドはブルースの部屋を訪れた。
「ブルース様、サンドイッチを召し上がりますか?温かなスープもありますよ」
ブルースは布団から出てこなかった。アルフレッドはベッドの近くに椅子を持ってくると「チョコチップクッキーもありますが」と呟いた。ブルースはゆったりと起き上がると、アルフレッドを見た。アルフは微笑むと、ホットミルクに少しクッキーを浸し、ブルースに持たせた。
ナイトテーブルにお皿を置いてアルフレッドが立ちあがろうとすると、ブルースはすかさず執事の服を掴んだ。
「どうかなさいましたか?」
「………いて」
「はい、かしこまりました」
アルフレッドは再度椅子に座ると、嬉しそうな笑みを浮かべた。
「何か御本でも読んで差し上げましょうか?星の王子様とファーブル昆虫記ならどちらがお好みで?」
ブルースは嫌そうに顔を顰めると、クッキーをわざと音を立てて噛んだ。アルフレッドがくすくすと笑った。


<生活>

ブルースの平均睡眠時間は2、3時間ほどだった。
午前中はベッドの上でまどろむか部屋の隅でうずくまっている事が多く、昼頃は落ち着きをなくしアルフレッドの傍をついて回るか屋敷を離れようとしてディックや執事と揉み合い、夕方になりダミアンが帰ってくると何故か大人しくなった。
ダミアンはブルースの傍で宿題をしたり、テレビを観たりと、必要最低限の言葉掛けしかしなかった。それには理由があった。最初の頃、ダミアンがしつこく話掛けた事により、会話ができず混乱に陥ったブルースが錯乱し駆け出し、棚にぶつかり気絶したからだ。それ以来、ダミアンはブルースが混乱しないよう自分なりに考えた方法でブルースの傍にいるようにしていた。
そんな末っ子の優しさと、それを感じているのかいないのかわからないブルースの態度に、ディックは若干の腹立たしさを感じていた。

夜間にかけて不安感が高まり、ブルースの不穏行動や暴力衝動は強くなった。徘徊したり、物を荒したり、ディックと怒鳴り合う事も多々あった。そうして朝方近くにアルフレッドの部屋で眠るか、廊下に蹲り動かなくなった。ディックに連れられ自室で寝ることも時にはあったが、人との接触でパニックになる一方で、夜間の孤独を怖がるようになったブルースは一人で部屋にいることができず大抵すぐに部屋から出てきてしまっていた。自身の睡眠時間が削られる事よりも、何をしでかすかわからない、話が通じない、そんなブルースの状態にディックは精神的に参ってきていた。

その晩、ブルースは寝つかず窓をかりかりと爪で掻き続けて数時間が経っていた。何をしたいのか問いただしても、ブルースは睨むようにディックを見てくるだけで何の返答もしなかった。壁によりかかり、痛む頭を押さえているディックの傍にアルフレッドが近づいた。
「リチャード様、私が代わりますので、どうぞ御休み下さい」
「でも…昨晩も一昨日もアルフに任せたから今日は僕が…」
「監視カメラで見ているのを“休み”とは言いませんよ」
夜のブルースの行動監視は、ディックの提案の元、1日交代制にしていたが、ディックを心配しアルフレッドが殆どをかって出ていた。それでもディックが監視カメラでブルースとアルフレッドを見ていることを、アルフレッドは知っていたが、ディック自身がブルースと揉み合う自体にならなければ少しはストレスが減るだろうと考えていた。

ここ最近のディックは見るからに余祐を無くし笑みを失ってきていた。それとは真逆にアルフレッドは常に笑顔だった。必然的にブルースもアルフレッドと共にする夜の方が落ち着いていることが多かった。
「坊ちゃま、一緒にベッドに行きましょう」
ブルースはアルフの方を見ると「外に行く」と言い窓を叩いた。こんな夜更けに…明日でいいだろとディックが言おうとしたが、アルフは微笑むと「ええ、勿論」と言った。

ガウンを羽織ったブルースがアルフレッドと手を繋ぎ屋敷の周りを散歩している光景を窓から眺め、ディックは更に痛み始めた頭を押さえた。散歩に行きたいと自分に言っても良かったことだ。けれどもブルースは何も言ってくれなかった。その事に苛立ちと悲しみが湧きあがり、ディックはその晩もさして眠ることが出来なかった。

一時間ほど散歩をした後、ブルースはアルフレッドのベッドで眠りについた。薬欲しさにディックやジェイソンを誘惑した事はあっても、執事に対してそうする事はなかった。
だが稀に、夢と現実の境界がわからず取り乱し、泣き出したり、衝動的に暴力を振るうことはあった。それにより怪我を負う事もあったが、アルフレッドはその事をディック達には黙っていた。アルフレッドが自身の部屋に監視カメラを設置するのを拒否したのもそれがあるからだった。
優しい青年達の心を悩ませてしまう事も、ブルースの拠り所となっているこの場所を取り上げる事もしたくはなかった。
けれど…


<次男>

ブルースの奇行を目の当たりにしてから、ジェイソンが屋敷に来る回数は頻度を増していた。
「てめぇまた来たのかよ」
「お前の許可が必要なのか?」
ダミアンはそんなジェイソンにいい顔はしなかった。ジェイソンのブルースを見る目は、心配よりも探るような視線であり、ジェイソンとブルースが同じ部屋にいると明らかにブルースの様子が落ち着かなくなることにダミアンは気付いていた。
「トッド、てめぇ邪魔だ。この部屋から出てけよ」
「リビングで休んでちゃダメなのかよ。俺は家族じゃねぇからか?あ?」
「…もういい。父さん、おれの部屋に一緒に行こう」
ダミアンがブルースの手を引き部屋を出ようとすると、丁度ディックが現れた。
「どこ行くの?ダミ、みんながいる場所にいないと駄目だ」
「でもトッドがうざい」
「ジェイソンはテレビ観てるだけだろ。みんなで居よう、な」
「……」
ディックの目の下の隈を見て、ダミアンは渋々了承した。長男の努力を見てきているダミアンには、そのやり方に若干不服に思う事はあっても、否定や反抗をすることは出来なかった。ブルースも大事だが、ディックの事も大事にしたかった。
できるだけジェイソンから距離をとった場所にブルースを座らせると、壁になるような形で陣取りダミアンは問題集を解き始めた。ブルースはその横で、ダミアンが置いた新聞をじっと見つめていた。
「ガキがガキの面倒みるなんざ…」
ジェイソンはその光景から呆れたように目を離し、ディックを見た。
「大丈夫か?」
「ん、あぁ、まぁね」
ジェイソンは来る度にやつれていくディックと、そしてもう一人…
「ジェイソン様、ケーキは如何ですか?」
アルフレッドのことも気にかけていた。
「あぁ、もらう」
どうぞと皿を差し出したアルフレッドの指先に傷を見つけ、ジェイソンはその手を掴んだ。
「どうした?」
「料理の際中に怪我をしました」
「手馴れてるお前がか?」
「えぇ、そういう時もあります」
ジェイソンがアルフレッドの腕をまくった。そこには紫色の痣が広がっていた。夜間、殴りかかってきたブルースの拳から顔を護るため受け止めた時についた痣だった。ジェイソンとディックが固まった。アルフレッドは表情を変えず、さっと袖を戻すと「庭の剪定の際に梯子から落ちました」と答えた。
「そんなわけないだろ」
怒気を含んだ声でジェイソンは立ち上がった。ディックはアルフレッドの腕を取り「どうして言ってくれなかったんだ」と問いただした。
「御二人が何と間違っているか察しております。ですがこれは全く違います。私のミスで怪我をしただけですから」
「殴られた痕だって事くらいわかる!ブルース!!」
ジェイソンの怒声に、ブルースがびくりと震えた。ダミアンは椅子を倒し立ち上がると、ブルースを背にし身体を張って庇った。そんなダミアンにディックはそっと近づいていった。
「ダミアン、部屋に戻ってなさい。ブルースにちょっと聞きたいことがあるんだ」
「嫌だ!!なんで俺がいちゃいけないんだ。俺がいたっていいだろ!!」
「お願いだ、ダミ」
「っ父さんを虐めたら許さない!!近づくな!!」
「虐めるわけじゃない、聞きたいだけなんだ」
「どけ、ガキ!!」
「御二人ともおやめ下さいっ」
アルフレッドが必死にジェイソンの腕を掴み止めようとした。
「お前がやったんだよな!?なぁ!!イカレてたら何やってもいいのかよ!?あ!!?」
ジェイソンから飛び出た怒声に、ブルースは反射的に手元にあった新聞を投げつけた。ジェイソンを押さえているアルフレッドにも新聞が当たった。ただの紙の束には何の威力もなかったが、ブルースのした行動に一瞬場が静まり返った。ブルース自身も驚いた表情を浮かべていた。
ジェイソンの怒りが限界を超えた。彼はアルフレッドを引き剥がすと、ブルースに殴りかかった。そんなジェイソンに攻撃しようとするダミアンをディックが取り押さえた。
ブルースとジェイソンは揉み合いながら床に転がり、ジェイソンがブルースの胸倉を掴み揺さぶった。暴れるブルースの腕や足が、乗り上げているジェイソンの体に当たった。ジェイソンはブルースの腕を掴むと、痕が付くほどに強く握りしめた。
「執事にもこうしたんだろ!?」
「やめろっ!!やめろぉ!!!父さんから離れろっ!ファック、トッド!!ぶっ殺してやる!!」
ディックは暴れるダミアンを押さえつけながら、ジェイソンに向かって「ジェイ、やめろ!!」と叫んだ。本来ならば止めに入りたかったが、ここで末っ子を放すと本当に殺し合いに発展しそうで手を放すことができなかった。そんなジェイソンを止めたのはアルフレッドだった。彼は身を挺してジェイソンの腕にしがみ付き「お止め下さい!!」と必死に懇願した。
「くそっっ!!」
ジェイソンはブルースの腕から手を離すと、組み敷いているブルースを睨みつけた。
「てめぇだけが辛いわけじゃねぇんだぞ!!アルフやディックまで巻き込むんじゃねぇよ!!」
ジェイソンが立ち去った後、茫然と転がっているブルースをアルフレッドが抱き起こすと、ブルースは途端に泣き始めた。アルフレッドはその細い体でブルースを抱き込んだ。
ダミアンは茫然と立ち尽くし、ディックはジェイソンの後を追いかけたが、バイクはもう走り去っていた。


<執事>

両親の息絶えた血肉の中で泣きじゃくり『HELP』と叫んだあの時、ブルースの心は死んだ。
二発の銃弾は父と母と、そして“子供”を奪った。抱き締めた幼い当主の瞳に光が消えた時、アルフレッドはそう思った。

血が抜け、ただの器となった幼き心臓に、アルフレッドは必死に愛情を注いだ。注ぎは抜け、注ぎは抜け、けれどもどうにかブルースは生きてくれた。コウモリに取り憑かれた時、それが良いことだとは思えなかったが、息を吹き返し始めた魂を見れば止めさせることなど出来なかった。いつしか駒鳥達が彼を取り囲み、ブルースが失った子供時代を、共に生き、見せてくれた。ブルースの心臓に血が溜まり、彼の瞳に光が戻った。時には黒く沈むこともあったが、それでもあの路地裏の瞳よりも幾分もマシになったのだ。

ブルースを生き返らせてくれた全ての人にアルフレッドは感謝をしてきた。我が子のようなブルースに愛情をくれた人達に。そしてその愛を支えに今日まで生きてきてくれたブルースにも。主人の全てがアルフにとっての生きる糧だった。



ジェイソンと一悶着あった晩、ブルースの精神はいつもに増して不安定になった。泣き叫び、自室を破壊するかのように暴れ、嗚咽を漏らし部屋の隅でうずくまった。暫くしてブルースはアルフレッドの部屋に来た。アルフレッドは一先ずブルースが落ち着いた事に安心した。それは自分への被害ではなく、ブルース自身が怪我をする事態に恐れていたからだ。

アルフレッドの隣で寝ている最中、ブルースはフラッシュバックに苛まれた。暴力の末、身体を貫いてきた男達、家族の顔、主人だと名乗り動物のように扱ってきた男、蝙蝠だった過去の記憶、薬に溺れ狂う自分、両親の死、わけのわからない世界で生きる今。
それら全てがコラージュのように無秩序に頭に浮かび、混乱を極めた。想像を絶する不安感と絶望感に駆られ、ブルースは起き上がると、錯乱しアルフレッドに掴みかかった。ヴィジランテだった頃の身体の動きが勝手に再生されていた。

ブルースに殴られた箇所が悪かった。アルフレッドが呻いた。肋骨が肺に刺さったのだ。意識が遠のきそうな激しい痛みの中で、ブルースは首を絞めてきた。アルフレッドは抵抗をしなかった。ブルースの苦悩を受け入れたいと思ったからだ。見上げたブルースの瞳は憎しみをぶつけるかのような血走ったものだった。

“こんな顔をさせたままでいいのか…?ここで自分が彼の手によって死ねば苦しむのは誰だ…?一人取り残されるのは誰だ…?路地裏で泣く少年を迎えに行ってやるのは…誰だ…?”

「わ…た…し……だっ」
アルフレッドは手を伸ばすと、ナイトテーブルのランプを掴み渾身の力でブルースの頭部にぶつけた。ブルースがベッドから転がり呻いた。アルフレッドが酸素を大きく吸い咽せ返れば口から血が溢れた。痛む脇腹を押えながらもベッドから転がり下りると、這いながらブルースの元に近づいた。

痛む頭部を押さえているブルースがアルフレッドをきつく睨みつけた。が、口から血を流し死にそうなその姿に、目を丸くし止まった。我に返ったブルースはしゃっくりを上げ「HELP!!」と大声を出した。何度も何度も大きく叫び、次第にその声は泣きじゃくるものになった。
「ぼ…ちゃ…ま…、だぃ…じょぅ…ぶです、よ…」
アルフレッドは顔面蒼白で震えているブルースに触れると弱弱しく頬笑んだ。ディックがブルースの声に気付き部屋に駆け付けた時、泣きじゃくるブルースの腕の中でアルフレッドは死んだように動かなくなっていた。






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