何故かはわからない。けれど昔から今日に至るまでブルースは純潔だと思い込んでいた。


世間を賑わすプレイボーイだが、実際に女性を抱いたことはあるのかないのか。彼の身体の傷は大富豪のお馬鹿貴公子が付けるにはおかしすぎる。いくら浮かれた女だって、その身体を見ればゾっとするだろうし、噂とスイーツが大好きな女性という生き物がそんな秘密を黙っていられるわけもない。SMプレイが好きとか何とか言って誤魔化したって限度が知れてる。


僕がロビンだった頃に、バットマンが、いやブルースが女性とセックスをかましているところなんて見たこともない。

僕がしょっちゅう彼の寝室に忍び込んでいたことに彼が気付いていたからかもしれないが、それにしてもそういう事後の気配みたいなものを彼が纏ったことはなかった。

確かにキス程度は見たことあるさ。僕を大きな小鳥ちゃん呼ばわりする猫とかと。でも所詮はそのレベルだ。


ブルースは純潔。それが僕の答えで、だからこそ美しいのだと納得できた。誰の手垢も付いていない硝子人形のように。彼がバットマンである限りそれは永遠に続くと思っていた。


だがどうだ。


ナイトウィングになって街を離れて、しばらくしてゴッサムに戻ってみれば、ブルースは明らかに穢れていた。俗物に落ちぶれていた。その原因を僕は知っていた。ゴッサムにはびこる悪人なんて目じゃない。一番危険な存在、地球外生命体、クリプトニアン、超人、スーパーマン。


クラーク・ケント。


あいつがブルースを穢した。純潔の貴公子を情婦に陥れた。そしてブルースはそれを受け入れた。あいつを文字通り受け挿れたんだ。汚ない。なんて穢らわしいのだろう。腹が立つ。だからこれくらいの仕置きは当然だ。僕に許しを乞いたからって、どうにかなることじゃない。あんたは穢れたんだよ。畜生!





モニターを見ているバットマンが僕の気配に振り向いた。マスクの奥の蒼い瞳はブルーカクテルのようだ。アルフレッドがさっき言っていた。旦那様はリチャード様が訪れるのを嬉しく思っておいでですよと。それも今日までだ。


ねぇブルースと尋ねれば、彼はムッとした口元になった。僕らには、仮装大会中は名前で呼び合うのを極力避けましょうという暗黙の決まりがある。ロビン時代からもうずっと守ってきているそのルールを僕は平然と無視した。

だって、あの超人にケツを差し出してるのはバットマンじゃない。ベッドの上に転がっているのは裸体のブルースウェインだ。だから僕の用事があるのはあくまでもそのブルースなのだ。この黒い塊じゃない。まぁ、でももしかするとコスチューム姿のままヤりあってるかもしれない。最低、ゲロを吐きそうだ。


「ブルース」と再度呼べば、いよいよ彼は「バットマンと呼べ」とはっきりと言った。だから呼ぶ必要はないと答えてやった。唖然とした彼の口元は見物だった。あのぽかりと空けた口で、あの男のイチモツを舐めてしゃぶって味わうのだろうか。ブルースが何かを言うおとする前に、言葉の刃物を突き立てた。


「スーパーマンとのセックスは最高?」


時が止まった。


ブルースの瞳から怒りが消えた。その瞳が左右に小刻みに揺らぎ、さざ波立っていくのがわかる。動揺している。身動きが取れないほどに固まっている彫像に僕は一歩近づいた。


「正義のヒーロー同士でまぐわってるなんてさ、穢らわしいね」

「ディ……」

「僕はさ、こんなゲイの相棒やってたんだ」

「ディック……」

「僕がどういう気持ちかわかる?」

「………………すまない」


認めた。認めやがったよコイツ。はは、ふざけんなよ、なんで謝るわけ?謝ったからってどうなるの?はい、これでこの話は全て終わりですとでも?馬鹿にすんな。謝罪したところで、あんたの穢れは消えないし、僕の軽蔑の感情は消えないし、底の見えないこの怒りはなおさら増すばかりだ。


「気持ち悪い」「冗談じゃない」「最低最悪だ」


捲し立てる罵倒を彼は黙って聞いていた。俯き、目を伏せ、僕からの責め苦に耐えていた。あぁ、僕はたった今、現在進行形で、師を、養父を、あのバットマンを屈服させているのか!彼が僕の意見を聞いている。彼が僕のために反省をしている。少しずつ怒りは消えていく。かに思えたが。


「彼を愛しているんだ」


ブルースのその一言はナイフや銃弾よりも僕の心臓を抉った。血が吹き出していく。身体の力が抜ける、頭が働かなくなる。生きている心地がしなくなる。なんだって、彼を、愛している?


「僕の事は?」

「え?」

「僕の事は愛してる?」


勿論だと答えるブルースの顔は父の顔だ。息子に嫌われたくないと、でも自分の気持ちも認めて欲しいという願望が現れた浅ましい顔だった。


「じゃあ、愛してるなら僕ともセックスできるよね?」







唇を噛み締めて耐えるより、僕の鳩尾辺りを殴る方が手早いのに。彼はそうしない。僕を一ミリたりとも攻撃しない。それがかえって僕の心を切り刻む。

僕が何をしようとも、この人にとってはどうだっていいんだ。僕なんざ、存在してないも一緒なんだ。


腰を打ち付けて流し込む精液は、たぶん血の色をしている。僕の心臓から流れ出た血。彼の中にいくら注ぎ入れても何も変わらないのだ。ただ僕の生命力だけが削がれていくだけ。不毛だ。


ブルースの唇が時折戦慄く。クラークと紡いだ気がした。横っ面を叩く。驚き見開いた目がこちらを向く。立て続けに5回叩いてやれば、もうこちらを見ることはしなかった。こんなの痛みにもカウントされないレベルだろうに、彼の目尻に涙が滲んだ。女かよ。


首を絞めながら耳元に口を寄せる。なんて囁いてやろうか。痛い?怖い?やめてほしい?あぁ、違うね、あんたはビッチなゲイ野郎だものね。じゃあ、もっと欲しい?気持ちいい?どこを突いて欲しい?


「lt's ok」


あ?イッツ、オーケー?この人はなに、イカれたの?それとも生粋の情婦なの?意味がわからない。こんな数年離れてただけで、この人の考えてることが全くわからなくなった。


ねぇブルース、あんたこんなに遠かったっけ?僕らの溝はこんなに深かったっけ?まるで崖だ。近付けない。これ以上進んでも死しかない。まっ逆さまに谷底へ。それでも、ずっと対岸を眺めるよりはマシかもしれない。


首を締める手に力が籠る。僕の指先が青白くなって痺れすら感じる。彼の首が鬱血していく。もっと強めれば窒息するより前に頸椎が折れるかもしれない。ねぇブルース、いっそ一緒に


「逝こうか?」

「……っ、いっ…It's ……ok……、」




……、…………、……………………あは。


あはは、は。はは。


は、


っはは。


ぁあ、この人は……


つくづく阿呆だ。





手を離せば、彼が唾液を飛ばしながらむせ込んだ。

「あんたと心中なんて絶対嫌だね」

レイプ現場に放置された被害者のように、いや、実際そうなのだけれど。そんな姿で転がっているブルースを横目に、自分の股間に付着してる体液と血をこの人の下着で拭い、さっさと服を着た。


きっとこんな目にあっても、この人は今後も僕を拒まないだろう。この人は搾取されることを何とも思わないのだ。そうでなければ、優しいとはいえないこのゴッサムという街に、大金も時間も命も費やせれない。


帰り際、小さく名を呼ばれた。

この期に及んで懲りない人だ。呼び止めてどうしたいんだ。実際に僕がここに留まれば、困惑するのはあんただろうに。ほんとに馬鹿だな。こんなんだから僕やあの道化師みたいなイカれた奴を調子付かせるんだ。あぁそれと愛国心満載のカラーを身に付けたスープスもか。


まぁいい。せいぜい好きにすればいいさ。向こうに婚約者がいることくらいリサーチ好きのあんたなら知ってるんだろう?わかっててこうなんだから、可哀想なほど愚かだ。寂しがり屋のあんたはいつもそうやって溺れかけては間違った藁を掴む。この人はどうして昔から自ら不幸を選ぶのだろう。馬鹿だなほんと。本当に……。



バイバイ代わりに言葉を残す。

たんと愛憎を籠め。鋭く切っ先を尖らせて。彼の魂を奥深く抉り、癒えない傷を遺すよう願って。

あいつが付ける傷よりもうんと深く切り裂け、蝕め、僕を刻み込め。

ねぇブルース、愛してる。あいつがあんたを愛する以上に。あんたがアイツを愛する以上に。僕はあんたを。だから……



「死んじまえ」






■■■








ここ最近、ディックが泣いている夢ばかり見る。

なぜ泣いているのか彼は答えない。私は困り果てて、途方に暮れ、そして目覚める。


そういえばあの日、私の上に彼が覆い被さった日。

その時もディックは泣いていた。

彼の汗と涙が私に降り注いで、まるで雨のようだと思った。涙を流している事に彼が気付いていたかどうかはわからないが、無表情で涙する姿は見ていて胸が痛ましかった。


頭の中では、どうしたのか、何が辛いのか、多くの疑問が湧いていたのに、この唇ときたらただ震えるだけで、何も言ってやれなかった。

正気に戻れば傷付くのはディックの方だ。力付くでも止めさせるべきだったのかも知れない。それなのに私にできた事は、ただ彼の全てを許容してやることだけで、だがそれもディックの望みではなかったらしい。


私はつくづく人の心が読めないと思う。自覚はしているのだ。

犯罪者の心理はあの道化を除いて大体は把握できるというのに。近しい者達の事はわからないなんてとんだ皮肉だ。


あれ以来、ディックからは何の連絡もない。

もし彼が謝るのならば許そう。もし彼が先日と同じ事を望むのであれば受け入れよう。結果はどちらも同じだ。だからどうか戻ってきて欲しいと願う。


今晩もきっと彼の夢を見るだろうと思えば眠るのが憂鬱になる。ディックの涙を見たくない。あの子を泣かせる私を見たくない。私は……どうしたらいい?







久し振りに屋敷に訪れたクラークは、到着早々そわそわと落ち着きがなかった。まるで子供のようだ。


「君に報告したいことがあってね!」


水晶のような瞳が喜びで溢れている。この様子では何か良い景色でも見つけたのだろうか?この間はいい場所を見つけたと、半ば強制的に連れ去られ、アマゾンの秘境で朝日を見させられた。えらい迷惑だと散々喚いたが、その場で目にした光景は確かに美しかった。

だが記憶の中の景色はみるみる内に陰惨な雲に覆われ、私を現実に引き戻した。

クラークと会わなかったこの期間に、私には色々あったのだ。彼が幸せだと感じる何かがあった一方で私は……。溜め込んできた気持ちが暴発したいと身体中で騒ぎ立てていた。


今の私は恐らく暗い表情をしているだろうと思う。いつもならばそれに瞬時に気付くクラークなのだが、今日は少し様子が違った。


「とても幸せなんだ!!」


彼は私を抱き締めると、全身で喜びを表すかのように地面から浮きあがりクルクルと宙を舞った。いつも不思議だと思う。何の動力でもってこいつは浮けるのだろうか。

こんな馬鹿馬鹿しい事に付き合っているからか、胸の中で渦巻いていた感情は次第に消えていった。実に単純で簡単なものだなと思う。彼といるといつもこうだ。


クラークはただいるだけで人々を温かく照らす太陽のような男だ。こうなりたいわけではないが、憧れは抱く。父の存在が永遠に憧れであるのと同じように。

彼と父が持っている正義の光は重なる気がするのだ。私には一生持ち得ない光だ。だからこそ近くで触れていたい……



歓喜に興奮しているクラークはそのままベッドに私を運び、そして……交わった。彼は熱く、優しかった。


互いに果てた後、抱き合ったままでいた。彼の腕の中が地球上で一番安全な空間に思える。今晩は久し振りに悪夢を見ずに済みそうだと、うつらうつら船を漕ぎだした所で、そういえばと思い出した。


「…ところで、随分浮かれていたようだが?」

「ロイスとの結婚が正式に決まったんだ!」


クラークの笑顔が網膜に焼きついた。






クラークが話をしているがよく聴こえない。頭の中が五月蠅い。まるでテレビのノイズ映像を見ているかのようで、実際に今なにが聞こえ見えているのかわからない。ただ時折、彼の笑顔だけが鮮明に映る。私に微笑んでくれている…………別の女性の名を口にしながら。

その声が一瞬止まった。

チャンネルを合わそうと私の脳がようやく働き始める。瞬きを何度か繰り返す。徐々に焦点が合えば、クラークが私を見つめていた。その表情は先程と一転して、真面目な顔つきだ。


「ブルース、泣かないでくれ」

「泣いてなど、」

「君を愛している。けどロイスの事も同じく愛しているんだ」

「   」


『It's ok』いつもの台詞を言おうとしたが、息が吐き出せなかった。こんなこと今までなかった。ちゃんと言えていたじゃないか。いつもと同じように返せばいい。イッツ、オーケー。そうだろブルース。しっかりしろ。It's……It's……

行き場の無くなった唇がひくひくと痙攣する。彼が私の口端にキスを落とし、ベッドから抜け出ていく。


ちょっと待ってくれ。行くな、行かないでくれ。彼女のことは分かってる。別にいい。それでもいいから。私のことを少しでも気にかけているのなら、もう少しだけ傍にいてくれ。頼む、何だかおかしいんだ。私が私でないような、いつもと違うんだよ。どうしても今は一人になりたくないんだ。クラーク、お願いだ、クラーク!置いていくな!!!



「……わかった、ロイスに宜しくな」


自分の声が憎らしい。ありがとう、と返ってきた彼の声よりも。



香りも残さず彼は消えた。開いたままの窓から冷たい風が吹き込む。この風だけが彼がいた証拠だ。なんて曖昧なものなのだろう。物的証拠にもならない。これで世界最高の探偵だなんて笑わせる。


誰もいない部屋は寒い。誰もいない人生も……。


ふと、ディックの言葉が蘇る。

彼が最後に残した言葉を実行すればディックは喜ぶだろうか?クラークはどう思うだろうか?


想像すれば声が出るほど笑えて、ほんの少しだけ泣けた。






2015/10/23 −死ぬほど愛して死んでくれ−





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