「俺、お前のこと全く好きじゃないけどセックスなら出来ると思うぜ。性格に似合わず勿体ない位エロい身体してるもんな」

ウォッチタワーの監視塔。暇を持て余したハルの発言は、ほぼ9割9分9厘冗談のつもりだった。恐らく冷めた目で見返されるか、もしバトルになればそれはそれで楽しくなるだろうと想像していたのだが、予想と反してブルースは無言のまま立ち去ってしまった。どこ行くんだよ、つーか仕事!と叫ぶハルの声は無視され、結局その晩ブルースが戻ってくることはなかった。

後日、バットマンの代理としてタワーに訪れた青年を見てハルは頬を引き攣らせた。彼が最も苦手とする蝙蝠一家のセコム『ティム・ドレイク』だったからだ。
以前、スーパーボーイとティムが一緒にタワーに来た際、いつもの軽口で「お嬢様の登場か」と呟いた言葉を青年は聞き逃さず「じゃあバットマンは女王様ってことかな?緑の下僕さん」と切り返してきた事があった。その言葉に苛立ったわけではない、そう言い放つ眼光の冷たさにハルはぞっとしたのだ。血が通っている人間とは思えないものだった。すぐさまハルの脳内メモリーに、ティムドレイクは食えない奴という情報が書かれたのだが、それがまた嫌な意味で上書きされるだろうとハルは直感した。
「うちのボスをからかうの止めてもらえますか?」
ハルは壊れた玩具の様に無言で頷き続けた。
その忠告を護ったというよりも偶然にもハルとブルースの任務が被ることはなく、しばらく顔を合わせることがなかった。

それから三ヵ月経った頃、ハルは身の毛もよだつ噂話を耳にした。
『バットマンとグリーンランタンが別れたらしい』
ウォッチタワーの通路だけでも、その小さな声を片手分は収集したハルは、監視塔に戻るとバリーに声をかけた。途端、バリーは飛び上るようにして驚くと、いつもの素早さはどこに行ったのかというようなギクシャクした様子で奥の部屋を指差した。
「ハル…お客さんが来てるよ……っていうか…なにしたの…?」
「俺が聞きてぇんだけど。お前もあの妙な噂聞い…
「いつまで待たせる気ですか?」
ハルの声を遮ったのは、ティムだった。彼は部屋の扉に寄りかかる形でハルを見上げていた。半分開いている扉の奥に見えた姿にハルは眉根を押さえた。ティムとは別の意味で面倒な相手だった。
「頭痛がする……最悪の日だ…」
「ハル…いいから行っておいでよ」
同情と心配が入り混じった瞳に背中を押されながら、ハルは地獄の底へと赴いた。

「で、うちのブルースとはどういった御関係で?」
「良くて同僚、悪くて同僚」
その言葉に質問したディックがにこりと笑みを浮かべた。
「でも本当は?」
「本当も何もそれしかねぇよ。ってか今日は胸糞悪い噂話を聞いて、俺は機嫌があまり良くないの!お子様は早くママの所に帰ってくれよ」
ティムがテーブルを強く叩き、一瞬空気が震えた。
「もういいよディック。単刀直入に言わせて頂きます。昨晩ブルースが“グリーンランタンと別れた”と言ってきました。彼が僕らに恋愛関係について言うのは珍しい事ですが、まずもって僕らは“付き合っていた”という事実を把握していな
「ちょい待ち。別れたって!?あいつがそう言ったのか!?嘘だろ、意味わかんねぇ。そもそも俺達は恋人じゃないし、友人ですらもない!!良くて同僚ってさっき言っただろ!」
ディックとティムは目を合わすと、二人してハルの方を見た。
「それは本当で
「マジだよ!!!何度も言わせんな!」
二人は先ほどまでの険しかった表情から一転し、困ったように眉を下げた。突然の変化に困惑しているハルに対し、ティムが静かに語り出した。
「ブルースは幾つもの未来予測を立て、あらゆるパターンに対応できるよう思考を巡らせるのが癖になっています。ですから、貴方から受けたからかいの言葉が脳内で発展しすぎて…」
「それで恋人にまで発展するか!?立派なメンヘラじゃねぇか!!病院に連れてけ!……そ、そんなに睨むなよ。つーか、そっちのは…どうした?」
ハルが指差した先には、机に突っ伏してぶつぶつと呟くディックがいた。
「なんで僕じゃないんだ…どうして…僕じゃダメなんだ…」
「あー…彼の事はそっとしておいて下さい」
「なんか大変だな…。ってか随分あっさりと説明するとこからして、俺が初めてじゃないな?」
「実は…」

ティムが話したのはスーパーマンに対してもブルースが勘違いをした事があるという話だった。ただ、クラークの場合は周囲が勘違いをしてしまうほど親密だった為、駒鳥達も本当に付き合っていると思っていた。
始めのうちは二人が恋人としてステップアップしていくのを阻止しようとした駒鳥達であったが、クラークの素晴らしい人柄に次第に心を許し、何よりもブルースが彼が来る度に明らかに喜び、まるで恋する中学生のような天の邪鬼を見せている姿を見て、大人として問題の多いブルースを受け入れる事ができるのはこの人しかいないと思った。
そして、正式に“自分達の父親を幸せにして欲しい”と頼んだ駒鳥達は、クラークの『勿論だよ!これからも親友として彼を支えていくからね!!』という満面の笑みに対し首を傾げた。何かが違う……と。
話し合いによって判明した事実にクラークは驚き焦った。
『ブルースにそう思われている事は嬉しいけれど、僕にはロイスという恋人がいて…どうしよう…困ったな』
その言葉通りの表情で頭を掻き悩むクラークに駒鳥達こそ困った。何故なら彼らは数日前にブルース本人から、クリプトナイト入りの指輪を見せられ、新しい武器かと思っている自分達に対し『婚約指輪だ』と言い放たれたからだ。

「それで結局どうなったんだよ」
「ロイスさんと婚約したってことをスーパーマン本人から報告してもらって、早々に結婚式も開いてブルースも出席したんだよね」
「あいつはそれで勘違いに気付いたのか?」
「いや……付き合ってたという妄想は変わらなくて、世間体を考えてロイスさんと結婚したと思い込んでる。自分は二番目だったんだと勘違いしたブルースの結婚式前後の荒れっぷりたら無かったよね」
ハルの顔が引き攣った。
「ジョーカーなんて一晩で骨を10ヶ所折られたし、ペンギンは更に不細工になるほど顔面ふるぼっこ。他にも大怪我のヴィランがアーカムに詰め寄せて、終いにはバットマンから守ってくれって自ら刑務所入るやつも。僕らにも八つ当たりの酷いこと」
「おい、鳥肌が立ったぞ」
「ブルースは貴方のリングにそっくりな黄色い指輪も作成してます。おそらく婚約ゆ」
「もういい。みなまで言うな。つーか、お前らの暴走親父をどうにかしてくれ」
「何度もしてきました。事実を提示し、付き合うに至るプロセスを経ていないことも説明しました!!」
「けど結果がこのざまかよ」
「僕らは激情したブルースに殴られもしたんですよ!!あんたなんかの為に愛する息子である僕達を殴ったんですよ!?プライベートまで踏み込むなだとか何とか!向こうは僕らのこと調べ尽くして監視までしてるってのに!!兎に角、ブルースに勘違いさせたアンタだって悪い!!」
一方的な怒りをぶつけたまま、ティムはまだ沈んでいるディックを抱えて帰って行った 。帰り際「責任とって下さいよ」と言い残し。

「責任ってなんだよ、じゃあマジで結婚すりゃアイツは満足すんのかよ。つーか、あいつ嫁に向いてない奴ナンバーワンだろ。それとも俺に嫁になれってか?破産するほど買い物しまくってやるかな。お前何欲しい?なぁバリー」
それまでハルの隣にいたはずのバリーだったが、閃光のような音にハルが顔を向けるとそこには陰湿な黒い塊が立っていた。
「あーーーえーーーと………よっ、元気か?」
「慰謝料を払え」
「は?何の?……おいおい、まさか婚約破棄だとか言い出さないだろうな。そもそも俺はお前と付き合ってすら」
「払えるのか?」
「あ?」
「5億ドルで許してやる」
「お前アホかよ」
「それが無理なら…」



バリーは5個目のハンバーガーをコーラで流し込むと口を開いた。
「で、払ったの?」
「お前もアホかよ。払えるわけねぇだろ、そもそも払わなきゃいけない理由がない。けどな…メンヘラほど恐いものはないぞ。あの目…刺されるかと思った」
「結局どうしたのさ」

ハルの返答を聞いたバリーは手に持っていた6個目のバーガーをトレーに戻した。
「つ、付き合うことにしたの?!」
「あぁ。実際に付き合ったらさ、アイツも現実と妄想の違いに気が付いて夢想ごっこも終わるさ」
「でも、うまくいったら?」
「いくわけねぇだろ。俺とあいつだぜ!水と油だ。大喧嘩して、はい、さようなら!だ」
「だといいけどねぇ…」



初めて二人きりで食事をすることになった日、案の定ハルは遅刻した。今日予定があったことを思い出せた自分を褒めてやりたい気持ちで来たハルだったが、目の前にいるドレスコードの男を前にして急に申し訳なくなった。寝癖の跳ねた髪と着古した服で待ち合わせ場所に来た自分とは何もかもが違ったからだ。一つ挙げるのなら、気合がだ。

「私を2時間待たせるとはいい度胸だ」
「……や、その…まぁ、色々あって…」
「………」
「嘘です……すっかり忘れて寝てました…」
ブルースは目を細めると「まぁお前には何も期待していない」と溜息を零した。

着いたのは庶民には立ち寄れない五ツ星レストランであり、貸切になっている広い空間のそこを、二人は微妙な距離間でもって席に着いた。気まずさから何か喋りたいと思っても、気軽に喋れる雰囲気でないことはさすがのハルも感じとり、次々と出される見た事もない高そうな料理を片付けることに集中することにした。
「どうだ?」
「ん?なんか…正直、ウマいのかマズいのかわかんねぇや」
ブルースの眉がぴくりと動き、手が止まった。その様子に気づかず、ハルはその後も料理を食べ続けたが、ブルースはどこか沈んだ表情のまま数口食べてはナイフとフォークを揃えて置き、すぐさまウェイターが減っていない料理を片付けていった。
「腹の調子でも悪いのか?」
「いや、そういうわけではないが…」
「じゃあ口に合わねぇってか?さすが本物の金持ちは違うねぇ」
キッとブルースに睨まれ、「もったいねぇ〜」とぼやきながらもハルはそれ以上尋ねるのをやめた。

店を出た直後のことだった。
入口のボードに書かれている『貸し切り』の文字を残念そうに眺めている人物達がいた。ブルースの父親が生きていたら同年代であったろう年配者と、その横には杖をついた老婦人が立っていた。ブルースはその光景を目にし急に立ち止まった。
「おやおやこれは、ウェインさんとこの」
声を掛けて来た年配者のことをブルースは知っていた。父親のアルバムに共に映っていた人物だったからだ。父親から彼がいかに父を支えてくれたのか、ゴッサムの善人であるかを幼い頃に聞かされていたブルースは、会った事もないその人物に尊敬の念を抱いていた。
ブルースは暗かった表情を一転させると、無邪気さの見える建前の笑顔を浮かべ「父が大変お世話に」と手を差し伸べた。だが年配者がその手をとることはなかった。
「ウェインの御曹司は仕事もせずに夜な夜な遊び歩いていい御身分で。お父上もさぞお喜びでしょうな」
「あなた、いいのよ。やめて」
「病気の妻が今晩だけ特別に病院から外泊の許可を得たから来たというのに、まぁ…仕方がないですな」
ブルースは一ミリも笑顔を変えないまま、宙に浮いたままの自分の手を戻すと「それは大変申し訳ないことを…少々お待ちいただけますか?」と言い残し、店内に戻って行った。

ブルースが支配人や従業員に直接交渉しに行ったのだとハルには分かった。それは老夫婦も察したようで、婦人は困ったように「どうしましょう」と夫に話しかけたが、老人は踵を返すとタクシーを止めるため手を挙げた。傍観者として務めていようと思っていたハルだったが、思わず口が開いた。
「おい、きっと店開くぜ」
年配者はハルをちらりと見るとすぐに視線を道路に戻した。
「あいつに不満はあるかも知れねぇけどさ、なにも帰ることねぇだろ。奥さんだって困ってるし」
「トーマスが生きていた頃のゴッサムも治安がいいとは言えなかったが、それでも彼は懸命に街の為に尽してくれていた。彼らが亡くなってから街は病んでいく一方だ。彼がトーマスの血を継いでいるとは思えない。非常に残念だ」
年配者は吐き捨てるように言い終えると、妻の背中を優しく支えながらタクシーに乗りこんでいった。それからすぐにブルースが店から転げるようにして出てきた。その背後には支配人も立っていた。
「お待たせしました、特別に……ハル、彼らは?」
「行っちまった」
「…そうか」
ブルースは支配人に向き直ると「小切手は返さなくていい。騒がせて申し訳なかった」と頭を下げた。ハルは黙ってその光景を見ていた。

しばらく歩きたいというブルースの希望通り、二人は目的もなくメインストリートを歩いた。華やかな表通りの隙間から生えている路地裏は、影よりも暗く、汚く、陰惨だった。表と裏がこんなにも近い街はゴッサムの他にも幾つかあるだろうが、そんな中でもこの街は上位に食い込むだろうとハルは思った。そして、こんな所で育てば、嫌がおうでも表と裏の顔を持った人間になってしまうだろうとも思えた。先程老夫婦に向けていた笑顔をごっそりと削げ落した、暗く冷たい死人のような顔をしているブルースを見て、ハルはそう確信した。

街の中ではブルースに握手を求めるものもいれば、指差し陰口を叩く者もいた。慈善家。プレイボーイ。道楽者。寵児。恥曝し。ブルースの用いている様々な縦書きは、すれ違う人々の顔に表れていた。とうとうハルの方が耐えきれなくなった。たちの悪い相手に絡み返そうとしたハルのことをブルースは片手で制すると、相手がどんな嫌味を飛ばそうともメディア向けの御綺麗な笑顔を崩さなかった。

ストリートを離れ二人きりになれば、ブルースの顔はいつもの口角の下がった無愛想なものに戻った。
「あのさ、辛くねぇの?」
「もう慣れた」
辛くないと否定しなかったことが、ハルには引っかかった。
「集団には敵が必要だ。その方がみな一致団結し、平和に過ごせる」
「引くわ〜その自己犠牲。正直お前の頭って、いかれてるけどさ」
「………」
「でもそれってお前のせいじゃねぇよ。多分」
「……ッ!」

何時の間にか隣にいない存在に気づきハルが振り向くと、ブルースは俯いたまま立ち止っていた。どうしたと声を掛けようとしてハルは口を閉じた。あえてブルースの表情を見ることはやめ、彼の肩を叩くと静かに前を歩き出した。ブルースは二歩ほど遅れて着いてきた。やや歩いたところで、ハルは冗談めいた明るい声を出した。
「わざわざ暴言聞く為に歩くとかさ、お前ってまじでマゾ」
「うるさい」
ブルースに肩を殴られ、ハルは痛い痛いと大袈裟に騒ぎ、ぜってぇヒビ入ったと泣き真似をした。馬鹿が、と呟くブルースの顔に、ようやく素のままの笑顔が浮かんだ。



3回目のディナーでのことだった。互いに忙しく、前回から約2ヵ月も間が空いていた。
その日、ブルースは終始落ち着きが無く、異常なほどアルコールを飲んでいた。あのハルが「ほどほどにしとけよ」という程、何杯もグラスを煽り、帰る頃にはブルースの焦点は朧げで足元は覚束無くなっていた。だからあれだけ言っただろと愚痴るハルの肩を借り、自身の乗ってきた高級車の助手席に投げ込まれたブルースは、しばらくの間、目を閉じ静かに呼吸をしていた。
ゴッサムの中心部を抜けた頃だった。目を開いたブルースは、脚をもぞもぞと動かし辺りを見回し始めた。
「んだよ、トイレか?」
「…違う」
「じゃあ何だよ」
「どこに向かってる」
「どこってお前の屋敷に決まってんだろ」
沈黙したブルースに、ハルはもう一度「何だよ」と声をかけた。ブルースは目線を外に向けたまま蚊の鳴くような小さな声で「ホテルには行かないのか」と言った。
「はぁ?ホ…、お前行きたいのかよ」
ブルースは外を見たまま小さく首を振った。やや躊躇うように横に振られたそれは否定を表していた。ハルは別段何を言う事もなく運転を続けた。沈黙が数分経過した頃、ブルースが「私といても…つまらないか?」と呟いた。
「お前今日なんか変だぞ」
「…いつも変だ。私は…フリークだ。皆、陰でそう言っている。お前も…そう思ってるだろ?」
ハルはため息を零すと路肩に車を止めた。ブルースはハルの行動に驚き、車に乗ってから初めてハルの方を見た。ハルは上体をブルースに向き直すと、強い眼光でブルースを見た。
「話せよ。何考えてる」
「…っ何も。早く車を出せ」
ハルは車のキーを取ると、それを自身のジャケットに仕舞い込んだ。そして顎をしゃくると、先ほどの質問の答えを待った。最初は睨み返したブルースも、次第にハルを見ていられなくなり俯き黙りこんだ。
「はぁ〜…もういい」
ハルがバシリとハンドルを叩くと、ブルースの肩が小さく震えた。
「俺が質問するからお前は頷くか首を振れ。いいな?」
困惑した目を向けてくるブルースを無視し、ハルは質問を始めた。
「お前は俺に抱かれたい」
ややしばらくしてブルースの首が横に振られた。
「お前は俺と別れたい」
またしても首は横に振られた。
「お前は、俺がお前に飽きたと思ってる」
しばし静寂ののち、ブルースは小さく頷いた。
「お前は…俺に捨てられたくないから、身体で繋ぎとめようとしている」
ブルースの反応はなかった。
「さっきの台詞、今までも色んな奴に言ってきたのか?」
ブルースは首を強く横に振った。
「じゃあなんで俺にだけこんな事…」
「お前がっ!…お前が…言ったから…」
「何を」
「私の…身体の事を…」
なんか言ったっけ、と記憶を回想させたハルは事の発端となった自分の発言をふと思い出した。

『俺、お前のこと全く好きじゃないけどセックスなら出来ると思うぜ。性格に似合わず勿体ない位エロい身体してるもんな』

ハルはくしゃくしゃに顔を歪めると、痛そうに頭を抱えた。
「あれはー…その…つまり…あれだ…そのー」
悪かったとハルが付け足すよりも先に、ブルースは意を決したようにハルを見た。
「お前がしたいのなら…私は…」
「いや、したいとか、そういうことじゃなくてさ、あれはただの冗談で」
その時、ふとハルはブルースの指が震えていることに気が付いた。ハルの視線に気づいたブルースは、さっと手を隠すと、何もないダッシュボードを見つめ、手持無沙汰に唇を甘噛み始めた。
その仕草にハルの記憶がリンクした。ハイスクール時代、初めて出来た可愛らしい恋人がいた。彼女との想い出はどれも初初しく、別れた今でもそれは良い記憶としてハルの中に大切に仕舞われていた。ブルースの仕草は、その中の出来事の一場面にそっくりだった。彼女を初めてベッドに誘った時…、彼女が初めてをハルにくれた時の…

「お…お前、今まで男と寝たこと…」

ブルースは目線をダッシュボードに向けたまま微かに首を横に振った。そして唇を強く噛み締め俯いた。途端、ハルの中で何とも表現しがたい想いが沸き、胸が熱くなった。ハルはブルースの手を無理やりに取ると、こっちを見ろと声を掛けた。
「悪かった。例え冗談でも言っちゃいけないことを言った。お前を傷つけた。今も…傷つけてる…」
ハルは苦しそうに息を吸った。
「俺は…お前のことが好きで恋人になったわけじゃない。取り合えず付き合えば、お前も満足していつか飽きるだろうって…」
「そんなこと始めから知ってた。もういい。遊びに付き合ってくれて感謝する。この車はやる。好きに使え。いらなければ売ればいい」
「おい、ちょっと待て、降りようとすんな!」
「放せ。私のことはいい。迎えを呼ぶ」
「そういうこっちゃねぇんだよ、いいから落ちつけ」
「他に何を話せばいい?男と寝た事もない使えない身体だってことか?それとも街を守れない出来損ないの息子だってことか?他は?!そうだな。すぐに勘違いする寂しい奴だってことか!?」
「ブルース…」
「触るな!!」
「いいから聞け」
「放せっ、ジョーダンっ!!」
「お前ってば、マジで本当にどうしようもない奴だな!」
「やめろ!放せ!!い、や!!ぃやだッッ!!!」
「あ〜〜もう、わかったよ」
ハルが腕を離すとブルースは急に動きを止めた。やや沈黙の後、素早い動きで車中から出ようとしたブルースをハルが両腕で抱き締めた。
「っ…ハ………ル…」
「今時こんなのドラマでもねぇよ!くっそ!!まじ恥ずい!ッ馬鹿みてぇ!この野郎っ!!俺にこんなことさせやがって!!責任とれよ!!!」
困惑しているブルースが震える声で「どうしたらいい?」と尋ねた。
「慰謝料だ!!慰謝料!!」
「幾らだ…?」
「宇宙5個分!!」
「……っふ、なんだそれは」
「知るかよ!!で!?お前払えんのか?!」
「今すぐは無理だ」
「今すぐって…じゃあ当分の間は借金の肩に俺と付き合え。いいな!?」
ブルースは顔を歪めると辺りを見回し始めた。その目には涙がじわりと浮かんでいた。
「返事は?!」
「…確約はできない」
「できねぇのかよ!!」



ウォッチタワーの休憩室。
テーブルの真ん中に、やや形の悪いクッキーが大量に置かれていた。彼らは選抜組から外れたクッキー達であり、見事メインメンバーに選ばれたもの達は可愛らしいラッピングボックスに入れられハルの手元に来ていた。
そのクッキーを頬張るハルの目の前には、苛々を隠しもしないティムと、歯ぎしりをしながらクッキーを睨んでいるディックが立っていた。

「僕は“責任とってください”とは言いましたが、こういう結果を望んでいたわけではありません。責任をとるってことは、骨が粉々に砕けるか、脳味噌が飛び散るかってことです」
「あのさー、お前らはどうしてそう父親の幸せを見守ってやれないんだよ」
「幸せじゃないからです」
「あのね〜僕ちゃん達よく聞きなさい。幸せじゃない奴が、こんな浮かれたクッキー作ってくるか?」
ディックは無言のまま壁を殴ると、できた穴に頭を打ちつけ始めた。どうどう、とティムはその背中を撫でると、キッとハルを睨んだ。
「それの試作品、僕らがどれだけ喰わせられたかご存じですか?」
「あ、そうなの?悪いね」
ティムが巻き舌口調で「ブッ殺してやろうか」と唾を吐いた。ディックは突然顔を上げると「じゃあ、ブルースのクッキーを一番初めに食べたのはあんたじゃなくって僕ってことだね!!あははははは!!!やったぁああ!!!!」と高らかに笑い始めた。
「アルフレッドが誰よりも先。ちなみに次はダミアン」
ティムがぴしゃりと言い放った言葉に、ディックは再度壁に頭を打ちつけ始めた。お前ら何してぇの?と呟くハルに、ティムがびしりと指を向けた。
「わかりました。交際を認めます。で、も!門限は21時。手を握っていいのは1分だけ。キスは手の甲のみ。セックスは…言われなくてもわかりますよね?」
ディックが額から血を流しながらハルを睨みつけた。
「ブルースの処女を奪ったら、あんたの命は無いと思え」
本人が奪ってほしいって言う日まで奪わねぇよと思いながら、ハルは「はいはい」と返事をした。



バットマンが新人のヒーローと喋っている姿をまるで監視するかのようにハルが睨んでいる。
「おい、バリー。あの黄金野郎、距離近くねぇか。ぜってぇアイツのことエロい目で見てるって。俺のもんだって言っといた方がいいかな?」
「ハル、無事に頭が沸いたようで良かったよ。おめでとう。ちなみに言わない方がいいと思う。相手困るから」
ハル達の気配に気が付き、ブルースが振り向いた。その目にハルの姿を認めると、眼元と口元がやんわりと笑みを象った。カウルで隠れた顔でも、それが宝石をかき集めたよりも何百倍も美しく価値のあるものだということがバリーにもわかった。
「ごめん訂正する。言っといた方がいいかもね」
「いや、やっぱいいわ。言わなくてもいい方法思い付いた」

後日、ブルースの右薬指に緑の指輪が光っていたが、またその後日には駒鳥達により破壊されたそれは粉粉になって水道管と結婚したのだった。



その日、「付き合って半年だ」とブルースは顔を赤らめながらハルに告げた。手には彼とアルフレッドが作ったであろうケーキの箱を手にして。今時、付き合って何か月経ったなどと数える奴がいるのか…それも手作りケーキ付きでと、ハルは目を真ん丸に見開いた。これが他人の話であれば腹を抱えて嗤ってやるのだが、それが自分に起きている身としては、嗤う奴がいたらそいつを殴ってやると思えるほどには、ハルはこのイかれた蝙蝠を可愛がっていた。

話しが変わるが、ブルースのウブすぎる恋愛ごっこは意外にも長続きしていた。というのも、元々面倒見のよいハルにとって、年上ではあるが中身は成長しきれていない子供のようなブルースは護ってやりたくなる存在だったからだ。ハルの面倒みの良さは、どこか子供じみた部分を持っているブルースの欠けたパズルを補い、彼を精神的に満たしてくれていた。時には余りの偏屈さに張り倒してやりたくなるほど苛立つ事もあったがそれは任務時のみで、現場を離れて二人きりになればブルースは途端に借りてきた猫のように大人しくなった。
黒色で身も心も塗り固められたと思っていたあのバットマンが、恋愛に関してだけは薄ピンクもいい程に柔でピュアな事実とそれをこれから自分が開発していくのかと思えば、男の本能がくすぐられ言いようのない高揚感に包まれた。ブルースが恥じらいを誤魔化そうとしているのを見る度に、護ってやりたいという庇護欲と、征服してやりたいと疼く性欲が脳中でバトルをしていた。

一方のブルースは“面倒な奴”だと自覚している己の性分に、投げ出すことなく傍にいてくれるハルに対して日増しに恋心が膨らんできていた。特に、性的な接触をして来ない事に好感を抱いていた。こうなったきっかけの言葉が言葉だけに警戒していた分、実際にハルと付き合って意外にも紳士的なことにブルースは驚いていた。
ブルースが性的な関わりについてネガティブな感情を抱いているのには理由があった。ゴッサムの寵児として囃され成長する中で、ブルースは男女ともに肉食の眼つきで見られる事が多かった。性的な色を含んだその視線は、ブルースにとってそれだけで犯されているような酷く気持ちが悪いものだった。女性を抱けば変わるかと童貞を棄てたが、一夜を重ねるたびに、性の薄汚なさを感じ、ロビンを傍に置く様になってからは後ろめたさも感じるようになった。
そんな中でのハルの対応はブルースにとって好ましい以外の何物でもなかった。『ハルは自分を襲わない』今やそう思い込んでいるブルースは、無防備かつ無遠慮にハルに甘えることが増えていた。時には、裸も同然の格好でくつろぎ、ソファ代わりにハルにもたれ掛かる事もあれば、そのまま寝入ることもあった。ブルースからすればセクシャルな意図は全くなかったが、ハルからすれば『誘っているのか?』と思うような時もあった。
けれどもブルースが無自覚でそれをしていることをハルは十分に理解しており、勢いでセックスでもしようものなら“どうせ体だけが目的なんだろ”と、泣きべそをかきながらブルースが卑屈になることは予想できた。何よりも可愛い恋人となったブルースを傷つけたくはなかった。だからこそハルはブルースの大胆な行動に目を瞑りながら、数ヵ月を耐えてきた。もういいか、いやまだだ。針にかかった獲物を引き揚げるタイミングを窺う釣人のように、ハルはいつ手を出すべきか悩んでいた。

話は戻るが、そうこうしているうちに半年が経ったのだ。

ブルースはケーキを箱から取り出しながら酷く言い辛そうにぼそぼそと呟いた。
「今夜はナイトウィングがゴッサムを警備するから泊まらせろ」
「は?」
ブルースの言葉が信じられず、ハルはもう一度聞き返した。あの駒鳥達が溺愛する父親を一晩預けることが信じられなかった。何かの罠かと疑ったハルは、ティムの携帯に連絡を入れようとして止めた。もしこれが、ブルースの独断によるものだった場合、駒鳥達は狂ったようにここに来て、ブルースはあっと言う間にゴッサムに連れ戻されるだろう。それならば門限時間になり怒りの電話が来るまでは傍にいさせようと思ったハルは、ブルースの作った美味しいとも不味いとも言えないケーキにフォークを突き立てることにした。

21時を回っても電話が鳴らないことに、ハルはここ最近で一番驚き、思わず間抜けた顔でブルースを見た。
「なんだ?だから今夜は泊まると言っただろう」
ブルースは詳細をハルには言わなかったが、実際に駒鳥は片手をひらひらと振り『今夜のゴッサムは任せて』と送り出してくれていた。駒鳥と言っても、ダミアンは一週間前に『アカデミーでの合宿があるから』とゴッサムを離れており、ティムはタイタンズの活動で不在、ジェイソンはいつものように行方知れずで、ディックだけしかいなかったのだが。
そのディックは、懸命にケーキを作る父親を睨む様に見つめていたにも関わらず、何時も通り21時には帰宅すると告げたブルースのジャケットを掴み『今日は半年記念日だろ、気にせずゆっくりしておいで』と言ったのだった。無論、彼らの恋を応援する気など一ミリも無かったが……。



シャワーを浴び終え、ブルースとハルはベッドの中で横になっていた。肉体労働が多いヒーロー活動ゆえに今までもよくこのベッドで仮眠をとることがあった。何時もの様にハルはブルースを背後から抱き締めた。暖かな肉感に心地良くなり、ハルが寝おちしそうになった時だった。ブルースが唐突に口を開いた。
「ハル……」
「んー?」
「好き…」
沈黙が部屋を埋め尽くした。脳がフリーズするとはこういうことを言うのだとハルは知った。想像力で武器を作るランタンとしては、これが闘いの場であれば死に直結している事実だ。
「…お前は俺を殺す気かよ」
ハルはブルースの首筋にキスをすると、驚き振り向いたブルースの顎を掴みディープキスを始めた。今まで触れる程度のキスは数回したことがある二人であったが、これほどにまで濃密なものは初めてだった。ブルースが石のように固まった。その隙をついてハルが寝着のすき間に手を入れ脇腹をなぞれば、ブルースは身悶え「ぁっあ、んぅ」と甘美な声を洩らした。キスの合間から漏れる吐息は荒くなり、ブルースの舌がハルの舌に絡んだ。

かのように思えたが、実際は必死で口腔内からハルの舌を追い出そうとしていたに過ぎなかった。そうとは知らないハルのアソコは既に臨戦態勢になっており、文字通りのヤル気マンマンでブルースに覆い被さった瞬間、彼は突き飛ばされベッド下に転がり落ちた。
「こ、こ、こんなつもりじゃない!」
顔を真っ赤にして言い出したブルースに「はぁ〜?!」とハルは苛立ちを込めた声を発した。それもそのはずである。泊まると言い出したのはブルースだ。泊まる=ヤるの世界で育ってきたハルにとっては、その時点ですぐに抱かなかった自分を褒めて欲しいくらいだった。そんな我慢をしていた自分に対して『好き』というGOサインを出してきたのはブルースである。それを今更何なんだよと、男なら誰しもがキレてもおかしくない状況ではあるがハルはぐっと耐えた。だが、そんな彼の気持ちを汲み取らず、ブルースは怒りと混乱と恥ずかしさで「穢らわしい」「発情期の猿め」と暴言を吐きはじめた。これにはついにハルの堪忍袋も切れてしまった。
「じゃあ紛らわしいこと言うんじゃねぇよ!これだから処女はめんどくせぇんだ!」
ブルースはぴたりと暴言を止め、信じられないといった顔でハルを見た後、突然駆け出しトイレに引き籠もった。トイレの小さな錠などリングの力を使うまでもなく破壊できるが、ハルはそれをしなかった。折れてやる気などなかったからだ。

10分、20分と時が経ち、やや落ち着いてきたハルは自分の行動に少しずつ反省をし始めた。ハルの世界ではヤるのが当たり前、それどころかヤらない方が失礼だと思っていたシチュエーションであったが、ブルースの世界では違ったのかもしれないと。彼特有のワールドにおいては、このシチュエーションも手を握る程度の甘い甘い綿菓子スキンシップでしかなかったのかも知れないと。そうだとすれば自分の行動は、そんな夢見る乙女の枕元に、エロ本とコンドームと終いには男の逸物を投げつけたようなものだったんじゃないか…

30分が経ち、彼は折れることを決心した。ハルが動き出そうとした時だった。凄まじい音で玄関が蹴破られ、ずかずかと侵入して来たのはディックとジェイソンだった。
ブルースはトイレから出てくると、銃を構えているジェイソンの背後に隠れるようにして回った。
「お前どういうつもりなんだよ…」
ブルースに近づこうとするハルの前に立ちふさがったのはディックだった。
「あなたこそ、どういうつもりなんですか?」
「あ?」
「僕らと約束したはずですよね?」
ディックは壁にかけてあったブルースのジャケットを手にとるとその袖を持ち上げた。そこには小さな盗聴器が付いていた。そこまでするかという驚きにハルは一瞬怒りを忘れた。
「でもこれだけじゃありません。ここに迎えを呼んだのはブルース本人です」
ハルがきつくブルースを睨むと、ブルースは弾かれたように顔を背けた。
「穢らわしい目で父を見ないで下さい」
ディックはハルに劣らない、いやそれ以上の形相でもってハルを睨みつつ、何も言わないブルースの背中に手を添え部屋を出て行った。
残ったのは銃を構えたままのジェイソンだけだった。年端の青年の視線に苛立ち、ハルが「なんだよ」と言った瞬間だった。
銃が放たれた。
反射的にリングで防いだものの、本気の殺意にハルは唖然とした。
「アイツを泣かせるのは俺だけでいい」
それだけ言い残しジェイソンは立ち去った。
「あの一家、まじでイカレてやがる……」
転がる銃弾、壊れた扉、誰もいないベッド。順番に視線を移動し、ハルはふつふつと沸き上がる怒りの行き場を無くしていた。



気まずくなった2人は、ウォッチタワーでもなるべく顔を合わさなくなった。会議でどうしても同席する場合は、ハルは完全無視でそっぽを向き、ブルースは盗み見るようにしてハルを見ていた。情報伝達でどうしても連絡を取り合わなければいけない場合は、仲介役としてバリーが使われたため、彼にとっては迷惑もいいところだった。
「スプーキーの野郎、ありえねぇ!まじ扱いにくい!あいつのガキも陰湿なとことかそっくりだ!」
「あのさハル。仲介は千歩譲っていいとして、その愚痴は聞いていて気分良くない」
「だって、あいつが悪いんだぞ!!」
「ブルースはハルの愚痴を言ってないよ」
「……っクソ!!でも家族呼ぶとか何だよっ。俺はあいつにとって何なんだ!!」
「優しい王子様。野獣じゃない方の」
「そんなのっ……いつまでもなれるわけねぇだろ… 」

好きだ、愛している、護ってやりたい。そう強く想えば想うほど、愛おしさから肉欲も比例して伸びるのが普通だ。ブルースが愛しいからこそ、こうなってしまった事実は、ハルにとって反省よりも不満の種になってしまった。
一方のブルースは、ハルとの気まずい関係を早く修復したかった。けれど正直にそう言えないのには、彼の性格やプライドの他に、性交はまだしたくないという思いがあったからだ。セックスを一度でもしてしまえば、体だけを目当てにされるのではという不安が拭えなかったからだ。自分の性格が捻くれており、人に好まれるキャラクターではないことを彼は十分に理解していた。端的に言えば、自分の内面に自信がなかった。だからこそ、身体を明け渡すことでハルがそれ目当てだけになり、ブルースの心を無視するようになるのではと危惧していたのだ。

そんな悩みを抱えていたある夜、ブルースは自警活動中にヘマをし傷を作ってしまった。普段の怪我と比べれば大したものではなかったが、駒鳥達は“なるべくしてなった”と騒ぎ立て、翌日早速ディックとティムがハルの元に訪れた。
「ブルースから手を引け」
「なんでもかんでも俺のせいとかやってられねぇ!あいつもお前らもマジで面倒くせぇんだよ!」
ハルはリングで作った巨大な手で二人を摘まみ上げると、直したばかりの玄関から放り出した。
そんなことが起きてるとは知らないブルースは、このままでは自警活動に支障が出ると思い、意を決してハルのアパートに向かっていた。自警活動の件はほぼ建前で、正直な話、彼はハルに会いたかった。寄りを戻したかったのだ。だがタイミングが悪かった。

「お前どういう神経してんの?」
到着早々、さきほどの駒鳥との一悶着によりイライラしてるハルから先制を喰らい、ブルースは言葉を失いただ見詰め返した。ハルはそんなブルースの表情を見て、彼が自分と寄りを戻したくてここに来たのだと理解した。
苛立ちは更に増幅した。家族間での情報共有もないまま、個人ごとの主張でハルは振り回されている。いつも我慢をしてきたのはハルだ。そして今もまたブルースは自分の主張だけを持ってここに立っている。詫びの言葉もなく。ハルの苦労など知りもせず。被害者面して一丁前に傷付いた顔をして……。ハルの中の黒い何かがドロドロと溢れ、それは口から零れはじめた。
「俺と続けたいならわかるよな?」
眉根を寄せ何を言わんとしているのか探っているブルースを待つことはせず、ハルはベッドを指さした。
「裸になってそこに横になれ」
「は……?」
ブルースの心臓がどくりと強く脈打ち、ついで静かに全身が冷たくなっていった。いつかは訪れると思っていた行為であったが、よもやこんな状況で迎えるとは想像もしていなかった。“NO”と心が訴え、足が後ろに下がろうとしていた。けれどもここで逃げてしまえば、関係は終わってしまうだろう事は容易に想像できた。

しばし沈黙ののち、ブルースは速まる呼吸を必死に抑え込み、痺れすら感じる指先を震わせながら、ハルに背を向け服を脱ぎ始めた。
真っ白なシャツから現れた背筋は傷だらけであり、荒々しい男の筋肉が隆起していたが、一つの作品のように完成されたその肉体は“美しい”の表現だけでは足りない何かを感じさせた。次いで現れた腰のくびれとその下の引き締まった尻に、おもわずハルは唾を飲んだ。究極にまで鍛え上げた身体はまるで芸術作品のようだった。

全裸になったブルースは隠れるようにシーツの中に入った。首元まで覆い隠したその姿は、まるで生娘のようだった。ハルが服を脱いでる間、ブルースは虚ろな目で窓の外をみていた。今や不思議なほど呼吸も心音も落ち着き、何も考える事ができなかった。白昼夢を見ているような非現実感の中で、ブルースはハルがベッドに乗り上げてくるのを見ていた。
ハルはシーツをめくり、改めてブルースの体を眺めた。同じ男として立派だと思うナニをつけていながらも、女よりも芳しい色香が漂っているのは何故だろうかと思った。言える事は、ハルが冗談で放った言葉以上に、ブルースはエロい身体をしていたという事実だった。太股の傷痕をなぞりながら、何気なくブルースの顔を見てハルは固まった。

ブルースの表情から精気が失われており、本人の自覚もないまま目尻から涙が溢れていたからだ。
「ちょ、おま…泣いて……」
ハルの言葉に我に返ったブルースは、乱暴に目を擦り『さっさとやれ』と言おうとしたが、掠れたそれは音にならなかった。自分の惨めさをより一層感じた瞬間、また涙が目尻を濡らし始めた。目を擦るブルースの暴力的な手つきを止めたのはハルだった。彼もまた目尻を赤くさせていた。
「悪かった」
唖然としているブルースに再度ハルは謝罪の言葉を繰り返した。
「あいつらに今日のこと言っていいぞ…。迎え…呼ぶから服着て待ってろ…」
ベッドから降りようとしたハルの手首をブルースが掴んだ。ハルは静かにそれを見詰めた後、視線をブルース本人に向けた。
「俺のこと嫌いになったろ?」
ブルースは首を横に振った。
「っ……!」
衝動的にハルがブルースを強く抱き締めれば、その身体は魚のようにびくりと跳ね上がった。
「大丈夫だ、何もしない。ただ…少しの間こうさせてくれ」
額へのキスを受け止めたブルースは、お返しとでも言うようにハルの口角に唇を添えた。

その後 、服を着終えたブルースを車まで送り、ハルは高級車が見えなくなるまで寒空のもと立っていた。ブルースを抱けなかったという欲求不満な感情は一切なく、ブルースの純潔を護ったのだという使命感に満たされ、心地良い気分だった。


後日、バリーとテレビを観ながら
「あの芸能人あいつにちょっと鼻筋似てるよな。まぁぜんぜんあいつのほうがいいけど」「あの犬あいつに似てないか?飼おうかな…」「おっ、あのマニアックな博物館…あいつ好きそうだな。仕方ねぇ今度連れてってやるか」
「ハル、それ僕じゃないと駄目?よそで喋ってきてよ。のろけとか聞きたくない」
「の、のろけなんかじゃねぇよ!なぁ、ところでアイツはさ、お前に俺のことなんか話したりしねぇの?」
「あーもー面倒くさいなっ!ブルースはしないよ!ちゃんと仕事とプライベートの両立できてるもん。ハルとは違って」
きゃっきゃと子供のように戯れる二人を目撃し、ブルースは羨ましくなった。あんな風に自分もハルを笑顔にさせたいと思ったが、自分の性格をよく知っているブルースにはそれは夢のまた夢だった。ジョーカーに先日言われた「ダぁリン、スマァーイル♪」は即刻殴り黙らせたが、実際に笑う練習も必要かもしれないとブルースは思った。勿論、プレイボーイのブルース・ウェインではなく、素のブルース・ウェインとして。

休憩室、一人で美味しそうにドーナツを食べていたバリーの向かいにブルースが座った。
「やぁ!ブルースも食べる?」
「いつもハルと楽しそうだな」
バリーはニコリと笑うと、ブルースにドーナツを差し出した。
「大丈夫だよ。ハルは君のことすっっっごく愛してるからね。それこそ、このドーナツなんて比じゃないくらいに甘いのなんのって」
ん、と突き出されたドーナツをブルースはいつものように『遠慮しておく』と断ろうとして止めた。下がった口角を引き上げ、目元を和らげた。
「いただこう」
バリーの笑顔が二倍になった。
「どう?甘いでしょう!?」
「あぁ」
「だから大丈夫だよ!」
バリーは満面の笑みで「もう一個いる?」と尋ねた。

[newpage]

駒鳥達の期待は見事に裏切られ、ブルースとハルの交際は順調に進んでいた。互いに忙しく、会えない月もあったが、二人は大きな衝突もないまま、文字通り健全にお付き合いを続け、一年が経とうとしていた。

ブルースのやっかいな性格をハルは全面的に受け入れたわけではなく、適度にキレ、適度に口論し、適度に殴り合うこともあった。だが適度以上に許していた。なぜならハルはブルースが考えている以上に彼を愛していたからだ。それこそブルースの為に、ブルースへの欲を抑え込むという生物学上、凄まじい矛盾に打ち勝つほどに。

未遂事件以降、ハルがブルースを抱こうとすることはなかったが、時折、欲を感じる視線で見詰められることがあった。どう反応すればいいのかブルースはわからず、気付いていないふりをし誤魔化すので精一杯だった。時刻が夜に近付くごとに濃くなっていくセクシャルな雰囲気から逃げ出すように「約束の時間だ」と去って行くのがブルースで、それを全て分かった上で「じゃあな」と見送るのがハルだった。時にはハルの方から「時間だぞ」と告げ、ブルースを屋敷まで送ることもあった。リングを使う時もあれば、ブルースが乗ってきたバットジェットを使うこともあった。ブルースはハルの運転が好きだった。パイロットとしてのハルの腕前は、操作に馴れているブルースを凌ぐ技術を持っていた。ハルが操縦した時はいつもよりバットジェットの性能が良くなったように感じた。
そんな日々はブルースにとって平穏で心地良いものであったが、こんなことを繰り返しているようでは飽きられてしまうかも知れないという恐怖心は常に付きまとっていた。かと言ってセックスに踏み込むにはまだ不安がある。それがブルースの本音だった。


悶々と悩んでるブルースの様子を見て、ディックは優しい笑みを浮かべて近づいた。もうそろそろ、二人の禁欲生活も限界だろうと彼は見込んでいた。
「どうしたの、悩みごと?相談してよ、応援してるんだから」
「…なんでもない」
「もしかしてエッチのこと?」
「なっ!お、お前には関係のないことだ」
「関係あるよ。だって僕はバットマンの初めてのロビンで、ブルースの初めての子供で、うん、あなたからは初めてを沢山を貰ってきたんだもの」
「ディック…」
「だから… 初めてのエッチも僕としてみる?」
「は?」
ディックの言っていることが頭に入ってこず、ブルースは呆けた顔で彼を見詰め返した。
「ふふ、その顔。難しく考えないで、練習だよ。失敗したらランタンに幻滅されるかもしれないよ。だから僕で練習してみたら?大丈夫、絶対に痛くしないから」
「……私達は家族だ。笑えない冗談はよせ」
ディックは笑顔から一転し急に真顔になると「あっそ」と ブルースの傍を離れた。
「でもランタンはどう思うかな。処女重いって言ってたしねぇ」
過去の盗聴で聞いた台詞を呟き、ディックは部屋から出て行った。ブルースの脳裏に過去の出来事がまざまざと蘇り、負の感情が湧き上がってきた。“処女は面倒”だからハルは自分を抱かないのかも知れない。その考えはブルースの心を更に不安にさせた。



「こんなに尽くしてるのに僕は家族止まりで、アイツは恋人…っ」
青年は歯軋りをし、画面に映るヒーローデータを睨み付けた。ディックの頬が緑のライトに照らされ、滲む瞳に憎い男が映っていた。どうにかしてブルースを自分達ロビンの元に戻したかった。どんな手を使ってでも。

その晩、ディックはブルースを泣き落とすことに成功した。
『あいつよりもずっとずっと前からあなたを愛してた』『たった一度だけでいいから触れさせて』顔をぐちゃぐちゃに濡らしながらプリーズと懇願するディックを突き放せるほどブルースは冷酷ではなかった。ましてや相手がディックであれば尚更、ロビンとして、今はナイトウィングとしてバットマンを支えてきてくれた青年を邪険にする事など出来るわけがなかった。
一回きりということを条件にブルースは了承した。それがいかに愚かな判断であったのかをこの時のブルースはまだ知る由もなかった。

ベッドの上。
無論、息子相手に勃起するわけがなく、窮屈そうに股間を膨らましているディックがトップをすることになった。ブルースはマネキンのようにただ横たわりディックを見ていた。ハルの時には晒すのに抵抗があった裸体だったが、ディックに対しては抵抗を感じなかった。というのも子供の頃に着替えや入浴の際に裸体を見せていた為、今更恥ずべきことなどなかったからだ。またディックの身体を見て、随分成長したなと感慨深いもの湧いたが、男を感じることはなかった。今からセックスが行われるとは信じがたい心持ちだった。まるで舞台で役を演じているような、現実とかけ離れた場所にいるような不思議な感覚の中にいた。

一方のディックも非現実感の中にいた。子供の頃から愛してきた人とやっと繋がれる!今から彼の念願の夢が叶うはずだった。けれどもいざ本番という時になって、こんな風に、まるで騙すようにしてブルースをベッドに誘い出すような心の穢れた自分が、この美しい人を穢すのかと思えば、ディックの身体は恐怖に震えた。罪悪感から、碌に身体を見たり触れたりすることも出来ず、挿入の前段階の時点でディックの動きは止まっていた。勃起しているペニスは萎えてはいなかったが、心が着いてこれなかった。助けを求めるようにディックがブルースの目を見れば、ブルースが首を横に振り、ディックの胸を優しく押し返した。自分とディックの心を代弁するかのようにブルースは優しく声を発した。
「すまないディック……本当に…。…やっぱり…できない」
ディックはくしゃりと顔を歪ませると、大粒の涙をぼろぼろと零し始めた。
「好きだ!好きなのに、なんで、ねぇブルースっ、っ、ブルー…ス」
しゃくりをあげながら泣くディックをどうしてやればいいかわからず、ブルースは自身の胸に泣きついてきた青年の頭を撫でてやった。
「ディック……落ち着いたら昔のように一緒に寝て、今日の事はお互い忘れる事にしよう」
「ブルース…っ、ひっく…、僕のこと…嫌いになった…?幻滅した…?っう、っく…」
ブルースは呆れたように微笑むとディックの髪を撫でながら首を横に振った。

その時だった。裸で抱き合う二人の身体が緑に照らされた。
緑光の差し込む窓を見れば、リングを翳したハルが信じられないという顔をして浮かんでいた。目が合った瞬間、ハルの目に映っていた驚きが怒りにシフトした事をブルースは瞬時に理解した。恐ろしいほど静かに窓が開き、ハルがその縁に足をかけた。部屋に入らなかったのは、この場に充満する穢らわしい空気に触れたくないという表れだった。
「お前…何してんだよ…」
「ハ…ル…」
「お前ら家族だろ!!意味わかんねぇ!どういうことだ!!?」
ブルースから身体を離し、ディックが慌てて説明を始めた。
「っこれには訳が」
「お前は黙ってろ!!ブルース、答えろよ!自分のガキと裸で何してたんだよ、ぁあ!?」
「違う!これは、僕が無理に頼んで」
「黙ってろって言ったよな?それ以上喋るな」
ハルの顔は今まで見てきたものと全く違っていた。ディックは初めてハル対して“怖い”という感情を懐いた。

裏切りや嫉妬よりも“息子とセックスをしている”という信じがたい事実にハルは義憤を起こしていた。弟を育ててきたハルには『年下は守るもの』という固定概念がある。例えディックの言う通り彼が襲ったのだとしても、それを受け入れたブルースに非があると彼には思えた。前々からブルースの精神の不安定さや、常識の無さはわかってはいたが、ここまで破綻している事に驚き、そして理解できなかった。
「このガキが頼んだからだとしてもだ、それを受け入れるなんてこと“普通の父親”はしない!優しさのつもりか!?ぁあ?優しい父親なら、息子がセックスしたいって言ったら股開くのかよ、え!?こんなの父親ごっこですらない!!虐待だろーが!!」
虐待という言葉がブルースの心臓に刺さった。彼は何も言えなかった。いや、言えることなど無かった。
「クレイジーだとは思ってたが…それ以上だな!お前が誰とも続かない理由も、ガキ共がおかしいのもわかった。大人として完成してないお前が、まともな人付き合いや子育てを出来るわけねぇもんな!」
「やめろ!ブルースを悪く言うなっ!僕が悪いんだ」
「あぁ、てめぇも悪い。だが、それを受け入れるコイツはもっと!……あー…もういい。うんざりだ。理解できないし、したくもねぇ。お前とはもう付き合えない」
「…ル…、待っ」
「お前みたいな屑をッ…大切にしてきた俺が馬鹿だった」
ハルは浮き上がると、瞬く間に飛び去っていった。

「こ…こんなつもりじゃなかったのに…ブルース…ごめ」
ディックの言葉が途中で途切れた。目の前でブルースの頬に涙が伝ったからだ。最も愛する人を自分のせいで泣かせてしまったという事実に、ディックは凄まじい罪悪感と後悔に包まれた。何度も懺悔するディックに対しブルースは「大丈夫だ」と返したが、ディックの目を見ることは出来なかった。己の軽率さに反吐が出そうだった。恋人と息子を同時に傷つけ、そして自分も…。全て嘘であってほしいと、ただの悪夢だと思い込みたかった。けれども窓の下に転がっている細身の花束の存在が、ハルがここに来て、そして去って行った何よりの証拠だった。花束の隙間から覗くメッセージカードには二人の交際が一年経ったことが書かれていた。薄く柔らかな白い花弁は潰れ、まるで死体のようだった。



真夜中、バリーのアパートの窓が乱暴に叩かれた。しばし無視を決め込んでいたバリーは、なかなか立ち去ってくれる気配のない来訪者に苛立ちながらベッドから降りた。
「今度はなに?可愛いの報告だったらぶん殴るよ」
「……」
久し振りに見る親友の硬い表情に、バリーはハルが本気でキレていることに気付き口を閉じた。彼はハルの話を相槌も打たず静かに聞き、全てを聞き終えてからようやく口を開いた。
「じゃあ別れて正解だと思うよ。だってブルースの言い分を聞く気はないし、その息子の言い分も信じられないんでしょ?何が真実かはわからないけど、信頼できない関係ならどうせいつか終わってたよ」
「……」
「ハルが納得してるなら、これで終わり。してないなら、ブルースともう一度話し合う必要があると思う。どちらにせよ、引き摺らない方がいい。ずっといがみ合ったって、二人にとっても周囲にとってもメリットはない。わかった?」

だが、バリーの忠告が受け入れられることはなかった。ハルはウォッチタワーであからさまにブルースを避け、時には聞こえるような声で罵りの言葉を放った。
その異様な空気は、あの鈍いクラークでさえも気が付き「君達なにかあったのかい?」と無遠慮に訊ね、周囲にいたバリーを含むメンバーを凍てつかせた。ハルはブルースに冷めた視線を送ると「あいつとは“何”もない。思うことすらない」と吐き捨てるように言い放った。ブルースはずっと黙ったままであったが、カウルの中の瞳はじわりと熱くなっていた。ブルースの様子をおかしく感じ、クラークは悪気なく透視をし、驚きに声を荒げた。
「ブルース、君、泣いてるの?!どうしたんだい?親友だろ、相談して欲しい」
クラークに両肩を掴まれているブルースを見て、ハルは鼻で笑った。
「良かったな。今晩寝る相手が見つかって」
「は?ぇ、え?!それってどういう…って、ブルース!?ちょ、待って!」
ブルースは突然走り出すとその場から消えてしまった。
「悲劇のヒロインかっての。被害者ぶんのも大概にしろよな」
困惑しているクラークや仲間を置いてハルもその場を去った。残された者達はみな困った顔を浮かべていたが、バリーだけは憤怒に満ちた表情を携えていた。



「ハル、ちょっと話がある」
「あ?」
「さっきのは無いと思う。皆の前でブルースをなじるなんて性格が悪すぎる」
「俺が悪いのかよ」
「ああ」
「っ、お前もあいつの味方すんのかよ」
「味方とか敵とか、そういう問題じゃない。ハルとブルースの間に何があったかはわかってる。だからって無抵抗の相手に対してやり過ぎだ!」
「あ〜もう、やってらんねぇ」
「ハルっ!!どこ行くんだよ?!」
どこだっていいだろと言い残し、ハルは基地を飛び出した。
ハルは分かっていた。自分のしている事がいかに醜悪で、ブルースを酷く痛め付けているかを。けれど、ハルが彼に傷つけられたことも事実であり、むしろハルこそが被害者だった。だが、怒りをぶつけて何が悪いという最もな意見を持つ一方で、元恋人を嫌いになりきれない気持ちもあった。いっそブルースがハルにとって嫌悪でしかない対象になれば、嫌味も言わないほどに関わらなくなるが、そう出来ないのには未練があるからだった。

ブルースのことを貶しながらも“言い返して欲しい”と思うハルと、受け止めることで許しを乞いたいブルースとの擦れ違いは、二人の溝を更に大きく開かせていった。



その夜、ディックはバーに来ていた。本当は顔も見たくもない人物に逢うために。
ブルースとの事やバリーとの一悶着を忘れようと、ハルは数時間も前からここで飲んでいた。ここ最近、連日通い詰めていた為にカウンターの一番端はハルの席になっていた。

彼は隣に座ってきたディックを横目で睨んだあと、アルコールを逃がすように鼻でふっと笑った。
「何だよ坊や。もう奴は俺のもんじゃない。好き勝手に甘えるなり、ヤルなりすりゃいいだろ」
「彼は初めから誰のものでもない」
「あー…はいはい、そうですか」
バーテンがディックに注文をとろうするのを、ハルは片手をあげ制止すると「こいつ今すぐ帰るから、なぁ?」と強制的にディックを追い立てた。
「話を聞いてくれ!」
「お前が床にパパお気に入りのそのお綺麗な顔をつければな」
ディックは迷いなく膝と手を床についた。その顔が地べたに付く寸でのところでハルはディックの腕を掴み引き起こした。
「横に座れ。アイツのためにそこまでするとか……まじで引くわ」
「何だってします。 僕らはブルースのためなら、なんだって…っ」
ハルは視線を逸らした。今や全てに対し疑り深くなり、強い信念など消えかけているハルにとって、確固たる強い想いを秘めている青年の瞳は耐え難かった。

ディックは包み隠さず事実を話した。自分のせいでこうなった経緯も未遂に終わったことも。だがハルには全く信じてもらえなかった。鼻で笑うハルに対し、ディックは最も言いたくなかった言葉を血反吐を吐くようにして放った。
「ブルースはあんたを愛してる!」
噛みつくようなそれに対し、ハルはあからさまに顔を歪めた。
「なぁ、今更そんなの聞いて、俺にどうしろっていうんだよ。え?アイツと寝れば満足なのか?シェアの誘いとか、とんだ変態一家だな」
「ねぇ〜もう行きましょうよ〜」
ディックが言い返すより先に、知らない女が割り込んできた。唖然とするディックをよそに、ハルは女の肩に腕を回し席を立った。
「待てよ!あんたにはブルースがいるだろ!」
「息子と浮気するよりよっぽど健全だろ」
「っ違う!だからあれは誤解だって言ってるだろ!ブルースは悪くない!!」
「悪くない?何度言えば気が済……あぁそうかもな!息子に股広げるのは悪いことじゃなくて、ビッチなだけだもんな」
「…っ!彼を…そんな風に言うなッ!!!」
大切な家族であり長年の想い人でもあるブルースを侮辱され続け、ついにディックは耐えられなくなった。次の瞬間、拳がハルの頬にめり込んだ。ハルはわざと避けず、人目を考慮しリングも使わなかった。軽くよろけたハルの瞳はしっかりとディックを見据えていた。その顔は痛みに歪むのではなく笑みすら模っていた。その余裕さと殴ることで理解したハルの強さに、ディックは無力感に打ちのめされ動けなくなった。だらりと力無く垂れたディックの腕をハルは慰めるように軽く叩いた。
「満足したんならママんとこに帰れ」
大丈夫?やだ、可哀想〜、と言う女の肩に擦り寄り「いってぇ、慰めてよ」とハルは笑った。
ディックはただ立ち尽くし、店から出て行く二人を眺めていた。あんな男にブルースは熱を上げて、あんな男にブルースを取られ、あんな男にブルースを侮辱された。怒りと悲しみと無力感から、ディックの頬に熱いものが伝い流れた。



ブルースの元に2件のメールが入った。一つは“ごめんなさい、誤解を解けなかった”という謝罪であり、もう一件は“お前の燕に殴られた”という謝罪を求めるものだった。
ブルースは再度メールを読み終えると顔を上げた。彼はハルのアパートの前まで来ていた。保護者の責任としての謝罪と、可能ならばあの夜の件も謝りたいと考えていた。

扉はすんなりと開かれ、気怠げな様子のハルが出迎えた。バーから出たハルは結局女とホテルに行くことなくすぐに帰ってきていた。ディックとの一悶着で興醒めしたからだ。

ハルからは連日垂れ流れていた怒りの雰囲気は無かったが、変わりに酷く冷たい空気が漂っていた。まるで赤の他人を探るかのような目で見られブルースは居心地の悪さを感じた。ディックの件を詫びれば「元気な燕だな。腰の捻りが甘いからストレートが弱いって言っとけ」と、あたかも気にしていないような返答をされブルースは拍子抜けした。“今なら誤解の件も…”と弁解を始めた直後だった。
「そういうのいいから」
ピシャリと話を遮られ、その真意がわからずブルースは困惑した。ハルは貧乏ゆすりをしながらブルースを見た。
「なぁ、ティーンじゃねぇんだからさ、下らない話し合いなんか止めて大人らしく身体で済まそうぜ」
ブルースの瞳が動揺した。ハルとベッドの間を行き交うその視線は定まる箇所を求め、最終的に床の小さな傷に落ち着いた。

許しを求めたかった。何時ものように『しょうがない奴だ』と甘やかして欲しかった。ハルからの愛情をもう一度得たかった。だからここに来た。けれども、そう簡単にそれを得られる訳がないということは、ブルースも理解していた。彼は床の傷を見つめたまま小さく頷いた。



痛いという言葉をけして放たないように、ブルースは唇を噛み続けていた。痛みには馴れている。だが、それは身体的痛みにのみ当てはまることで、心的痛みに対しては…。だがその自覚がない彼は、自らを精神的に追い詰める選択をよくするのだった。そして今回も。

ハルは容赦なくブルースを扱った。ディックと既に貫通済みだと思っている彼からすれば、ブルースは中古品の家電と同じだった。愛を告げることなどせず、命令口調で指示を出し、馴らす事もしなかった。
「四つ這いになれ」「尻向けろ」「とろいんだよ早くしろ」
ハルの言葉は全てブルースの背面からかけられた。それには理由があった。顔を見たくなかったからだ。怒りをぶつける一方で、どこかで後ろめたさも感じていた。自分で始めた行為であったが、早く終わらせたいとハルは思っていた。ブルースの腰に手を添えると、無理矢理に挿入した。
「ッ…!」
「きっつ。入らねぇよ、痛くて無理」
実際に、きつく閉ざさったそこに何とか挿入出来たのは先端だけだった。押し広げねじ込むようにして突き入れられたそれに、ブルースはシーツを握り締め耐えた。体内の柔らかく鍛えようのない箇所に晒された暴力は本能的な恐ろしさを感じさせた。
ブルースが反射的に身動ぐと、逃げようとしていると勘違いしたハルはリングの力を使って彼をベッドに縫いつけた。手足だけでなく、首まで繋がれ、ブルースの息が詰まった。
「動くんじゃねぇよ!大人しくしてろ」
突き刺すように深く挿され、ブルースの秘部が引き伸び、そして裂けた。小さな呻き声と共に、穴から血が溢れ出た。

本来ハルは、こういったレイプまがいのプレイは好きではない。それどころか嫌悪すらしている。セックスは遊び、遊びは楽しいというスタンスの彼にとって、もはやこれは相手にも自分にも拷問でしかなかった。
ブルースの引き攣った疵痕だらけの背中を眺めながらハルは思い出していた。心からブルースを可愛いと思って大事にしてきたことを。それこそ女よりも気を遣って接してきたというのに、ブルースにはそれが全く伝わっていなかった。こんな風に誰とでも、どんなプレイでも、何も言わずに尻をさらす野郎だったのかと…やりきれない思いの中、腰を振り続けるうちに自分のアレが萎えていくのを感じていた。
一方ブルースは、同じベッドの上で、優しく抱きしめてくれていたハルを思い出していた。今身に起きている信じがたい事態に、息を吸うたびに気管が焼け付きそうだった。あんなに優しかったハルを傷付け亡くさせてしまったのは自分であり、己が招いた結果なのだと。

「萎える。もういい」
ハルは突き飛ばすようにしてブルースから離れると、萎えた自分のモノをティッシュで拭った。鮮血の滲むティッシュを見れば、自分がいかに非道な行いをしたのか現実を突き付けられ、この場から逃げ出したい気持ちになった。自分をこうさせたブルースが憎かった。それ以上に、自分自身が憎くて仕方が無かった。ハルは放心状態で横になっているブルースに唾を吐いた。ケロイドの浮かぶ脇腹が、透明の粘液に穢された。
「お前のことなんざ、もう見たくもねぇ…早く出てけよ…出てけッ!!」
ブルースは操り人形のように起き上がると、血の出ているアナルを処理し帰り支度を始めた。彼は最初から最後まで、涙の一粒すら流さなかった。いや流せれなかった。あまりの出来事に心が悲しみに付いて来れなかった。淡々と身を動かしているブルースに対し、ハルはさげずむように嘲笑った。
「さすが慣れたもんだ。家族と寝るくらいだもんな。お前がこんなんだから息子もおかしくなって当然だ」
ブルースの動きが止まった。“息子もおかしくなって……”ふと腑に落ちた。ディックが自分を抱きたいとあれだけ懇願してきた理由がブルースはずっとわからなかったが、今理解した。己のせいだったのかと。
ブルース自身、自分が真っ当な父親であるとは思っていなかった。いつだって不十分で、心足らずだった。そのために何度も子供達と喧嘩をし、時には亡くす事もあった。そんな人間の傍にいたのだから子供達が歪むのは必然なのではないか。自分は被害者ではなく、全てにおいて加害者だった。その自覚は、与えられた身体苦痛以上の痛みと衝撃を心に与えた。


その後のことは覚えていなかった。
気が付けばブルースはケイブに戻って来ていた。そこで我に返ったのには理由があった。今は逢いたくなかった息子達が集まっていたからだ。
憔悴しきったディックの隣でジェイソンとティムが慰めていた。
ティムがブルースの存在に気がつき、お帰りと声を掛けようとしたが、何かを察知したティムは急に強張った顔になり、眉を吊り上げた。抱かれたばかりの空気を纏っていることに気が付いたのだ。
「ヤッたの?」
静かな怒りを感じさせる声色だった。ブルースは答えることが出来なかった。イエスともノーともつかない態度の時、それが何を意味するのか駒鳥達はよく知っていた。
「ディックがこんな状態なのに?!よく出来るね!」
ディックは泣いていた顔をあげると「ティム、やめてっ僕はいいから」とすがるように弟の腕を掴んだ。ジェイソンがブルースを睨みつけた。
「あんたはいつも自分のことしか考えちゃいない!そもそも追い詰められたディッキーをどうして守ってやれなかったんだ!あんたは……親でも何でも無い!」
ジェイソンの口から出たワードは、ブルースの心臓を抉った。よろけそうになるのを何とか堪え、立ち続けるだけで精一杯のブルースには喋ることなど無理だった。いや、言葉など何も思い浮かばなかった。
「もういい!貴方には貴方の考え方があるんでしょ!僕らの気持ちなんて……っ」
「俺達はただ黙ってあんたの命令を聞けばいいんだもんな。やってられるか!」
号泣するディックを抱え、駒鳥達はケイブから出ていった。ディックはブルースを擁護したかったが、ブルースがとうとうハルに抱かれた事や、自分がこんな状況なのにハルとセックスした事、自分ではなくやはりハルを選ぶのかということに気が向き、ただパニックになり泣くことしか出来なかった。

静けさを取り戻したケイブに一人残されたブルースは、一歩を踏み出した瞬間に膝から崩れその場に座り込んだ。何も考えられなかった。
ブルースは人よりも記憶力に長けている。逆にいえば彼は記憶を追いやることが子供の頃から苦手だ。特に心に受けた酷い衝撃は、鮮明にメモリーされ風化されていかない。だからこそブルースはバットマンになった。両親の死が薄まることが無かったからだ。
同じように今日の出来事も、海馬を幾度も巡った末、大脳皮質に蓄積され忘却されることなく経過していく。脳が心を喰らい、心が脳を支配する。ブルースの脳内をかけ巡るのは、息子達の怒りの表情や言葉、泣いているディック、侮蔑の眼差しを向けるハルの顔だった。

ブルースの左眼から涙が一粒だけ落ちた。

[newpage]

「なんか最近、バットマンおかしくないか?」
ウォッチタワーでは、最近よくその言葉が囁かれていた。
ブルースの行動は挙動不審とまではいかないが、どこか奇妙なものになっていた。周囲に人が来ないよういつも以上に隅を歩き、全体ミーティングのような人の多い場所は避け、かといって少人数で集まる機会も避けていた。警戒心が強いというよりも、どこか脅えているようなその様子は、今までブルースが放っていた風格や威圧の雰囲気を削げ落としていた。その様は孤高ではなく孤独という表現のほうがしっくりくるほどだった。

「ブルース、最近どうしたんだい?」
「…どうもしてない…」
「そんなわけないだろう。ねぇブルース、少しは僕を頼ってほしい」
クラークの手が肩に置かれた瞬間だった。ブルースは反射的にそれを叩き落とすと、威嚇する猫のように肩を怒らせ、ガードと攻撃を兼ねる姿勢をとった。
「え……、ブルース」
「ち、近付くなっ」
「ごめんよ、気に障ることをしてしまったようだね…」
落ち込むクラークの顔を見て、ブルースは自分の行為が彼を傷つけたことを自覚した。あぁ…まただ、と無意識に脳内で浮かんだ言葉は、ハルや息子達を傷付けた記憶を回想させ結びつけた。謝罪の言葉を紡ごうとして、ブルースの喉は絞められたように息が出来なくなった。すまない、と絞り切るように放ったほぼ空気のようなそれは、クラークの超人的な聴力には届いたが、クラークが引き止めるより先にブルースはその場から消え去ってしまった。

ブルースは急激に痩せていった。本来であれば執事が体調管理をしてくれるのだが、駒鳥達がいるかもしれない屋敷に帰り辛く、屋敷には立ち寄っていなかった。日中はウォッチタワー、夜はゴッサムを行き来する多忙さの中で、補うべき栄養を摂らずにエネルギーだけ消費されていけば痩せていくのは当たり前だった。“病んでいる”傍から見ればそう思われても仕方が無い心身状況にあったが、ブルースにはその自覚はなかった。彼は自分のことを客観視できる余裕を失っていた。

バリーはブルースを見て顔を歪めた。ハルとブルースの間で何があったのか、バリーは知らされていなかった。無論、ブルースの尋常ならざる様子を見て、ハルを問いただしたが、いつもならば聞かずとも自分から言い出すハルが、今回だけはけして口を開かなかった。
バリーなりに自分が出来ることを考えた結果、二人に何が起きたかはわからないが、その出来事がブルースの中から早く流れ消えるように、出来るだけ明るく、今まで通り接しようと決めていた。けれど、このままでは任務内外に関わらず死んでしまいそうなブルースの様子に、ついにバリーは耐えきれなくなった。
「ねぇ、大丈夫?」
先ほどまでヘラヘラと笑っていたバリーに真剣な目を向けられ、ブルースはやや黙った後「大丈夫だ」と答えた。それは嘘ではなかった。ブルースの心は当に麻痺しており、どこまでが大丈夫なのか、どこから限界なのか、わからなくなっていた。これ以上この問題に誰かを巻き込んで傷つけることをしたくないとブルースは「少し休む」と言い残し、バリーから遠ざかった。
バリーは頭を掻き毟り、自分の頬を何度も叩いた。明らかに大丈夫ではないブルースに『大丈夫だ』と答えさせた自分が情けなかった。これでまたブルースは“大丈夫”という枠に自分を押し込めることになった。ブルースに何もしてあげられない自分の無力さに、バリーは唇を噛み締めた。同じように、頑なに壁を作り虚勢を張っているハルの心を救えないことも、バリーを苦しませていた。

その光景を遠目で見ていたハルは、バリーを傷つけたブルースに対し怒りを感じていた。周囲の気遣いや困惑を無視するくせにあからさまな落ち込みを見せ続けるブルースの言動は、ハルの苛立ちを増幅させていた。



ノックもなしに、ブルースの部屋にハルが入ってきた。あの事件以降、二人がここまで接近することはなかった。ビクリと震え無意識のうちに逃げ場所を確保しようと目線を動かしたブルースに、ハルが舌打ちをした。
「まじイライラすんな」
ブルースが固まった。痩けた彼の頬を見てハルは眉根を寄せた。
「飯食ってんのかよ」
ハルからの言葉にブルースは純粋に嬉しくなった。だがそれも束の間「バリーに責められるの俺なのわかってんのかよ。いい迷惑だ」と付け加えられ、期待した己が恥ずかしく気管が焼けそうになった。
「あからさまな態度で悲しみアピールか?ん?だったらこんな陰気なことやめて、俺にレイプされたって息子やクラークに言えばいいだろ」
「っ!ぁ、れは……同意の上だ…」
「はぁ?………お前、それまじで言ってんの?」
「私は…拒絶しなかった…」
「まじでキモいんだけど」
カッと、ブルースの喉が焼き付き、動悸と吐き気が込み上げた。
「お前さ、あれがセックスだと思ってたの?処女こえーわ。俺がお前のこと好きで抱いたとでも思ってたのかよ」
視界に入ったハルの冷めた瞳がブルースの何かを切り裂いた。耐えきれず彼はトイレに駆け込んだ。えづく声と水の流れる音を耳にし、ハルは顔を歪めると部屋を出て行った。
自分が言い放った言葉が信じられなかった。ここまで言うつもりなどなかった。だが自分を見て脅えをみせたブルースに対し苛立ちが湧き上がり、そして止まらなくなってしまった。ハルは壁を殴りつけた。自分が嫌で嫌で仕方が無かった。


ブルースの精神状態は更に不安定になった。元々人間不信なのが更に輪をかけた状態では周囲から浮いて当然だった。
ブルースのことをあまり知らない新メンバーは特に彼を変人扱いした。何の能力もないただの人間だろ?と噂する者まで現れ、それを耳にしたバリーとダイアナが怒り狂い、基地の1/5を破壊するという事件にまで発展した。最終的にクラークが登録ヒーローを全員招集させた全体ミーティングの席で「僕は今とても悲しい。皆にはヒーローとして適した言動をして欲しい」とコメントをしたことで、一連は騒動は治まりブルースへの影口は表面上無くなった。だがハルの怒りはおさまらなかった。お前らにあいつの何がわかるんだ、と思う一方で、そんな風に怒っている自分にも苛立った。もうブルースのことなんてどうでもいいはずだ、忘れろ。そう自分に言い聞かせても頭の隅からブルースは去ってくれなかった。


ある晩、バリーの元にハルから電話が入った。言われたバーに行けばハルが酔い潰れる寸前だった。
「あ、バリィ?一緒に呑もうぜ」
「帰れないから迎えに来いって言ったのだれさ。こんなに飲んで…ほら立って、帰るよ」
「ねぇあなたハロルドの友達?イケメンじゃーん」
「かわいいー」
女二人に腕をとられ、バリーは迷惑そうに顔をしかめた。
「ちょ、っと、何ですか」
「あぁその子ら、俺の最近のセフレ仲間〜、今日は4Pにするか〜?」
イエーイと言いながらハルは女性とハイタッチを交わした。セフレ…と確かめるように呟いたバリーは、険しい顔付きになるとハルを無理矢理引っ張り店の外に出た。途中まで女性陣が笑いながら付いてきたが、バリーの真剣な怒気に気が付いた彼女達は足を止めた。

バリーは店の裏手にハルを連れて行くと、積み上がった空のビールケースにその身を投げつけた。
「いってぇぇ……なんだよ、バリぃ。そういうプレイは好みじゃなかったかぁ?」
「ブルースを放っておいて、何してんだよ!」
「お前も…あいつの息子と同じこと言うのかよ……。そんなにアイツの事気になるんなら抱けばぁ?誰にでも…息子相手でも股開く奴だから喜ぶぜ〜。はは!あぁでも気を付けろよ。あいつビッチの癖して超使えないケツしてるから」
バリーはハルの胸倉を掴み挙げると、激しく壁に叩きつけた。ハルは背中を強打し、むせ込みながら崩れた。そのあまりの速さに何が起こったのかついて行けず見上げれば、バリーが怒りに身を震わせていた。
「ブルースは……家族を愛してて、ハルが大好きで、彼がこんなに傷つく必要なんてどこにもなかったはずだ!」
「バ、リー…?」
「謝れっ!ブルースに謝れよ!」
ハルは怒鳴るバリーをただ呆然と見上げていた。バリーは糸が切れたように座り込むと、ハルの足を何度も叩いた。バリーの目から涙が溢れ出るのと比例して、叩く力は弱々しくなっていった。
「この馬鹿ハル、ばかっ、何やってんだよ、ハルの馬鹿〜〜っ」
「いてぇって、バリー…、おい、バリー」
「このままじゃ、ブルースが死んじゃうかも知れないよ?!」
「んな、大袈裟な…」
「ブルースが無茶するタイプだってわかってるでしょ!?彼が、自分の事を大事にしないことも、ハルは十分知ってるでしょ!?いいの?!ブルースが死んじゃってもハルは平気なの?!」
親友同士が傷つけ合うのをもう見ていたくはなかった。ブルースのこともハルのことも守りたかった。だが、どうすることもできない自分自身にバリーもまた限界だった。泣きじゃくるバリーと同様に、ハルの目にも涙が滲んできた。
「俺だって…俺だってこんなこと望んじゃいなかった…けど………どうすりゃいいんだよ」
ついにハルの頬に涙が伝った。二人は鼻を啜りながら泣きじゃくった。



一方、しばらく姿を見せていなかったダミアンだが、彼は数週間前からタリアの元を訪れていた。アカデミーの合宿だと嘘をつき、わざわざ危険を犯してまで組織の本拠地に来ていたのには訳があった。ブルースのためだ。ブルースが他人に取られるくらいならば母に、などという思いではない。他人にも母にも渡すつもりはなかった。ブルースは、ダミアンが幼い生涯の中で得た大切な宝物の一つだ。唯一無二の父親。それをおめおめと手放すわけがなかった。

少年はブルースの恋愛観をタリアから聞き出し、ブルースがどのような人物に魅力を感じるのかを知ろうとしていた。そしてブルースとの関係を終焉に持って行くやり方も…。
だが、血は争えなかった。ブルースを手に入れるまたとないチャンスだと彼女も思っていた。どちらがより多く情報を聞き出せるか、そしてどちらが先に動きだすか……母子での父を巡る駆け引きの結果、やはり母の方が何枚も上手だった。だがダミアンもまんまと罠にかかるほど馬鹿ではない。自分をだしにブルースを本拠地におびき出そうとしている事に気が付くと、寸での所で逃げ出しゴッサムに帰還することができた。

だが屋敷にいたのは心労から疲弊の色を滲ませたアルフレッドただ一人だった。
「父さんは?」
「JLの活動に出掛けてから、もう数週間ほどお戻りになっておりません」
「他の奴らは?」
兄弟の行方についてアルフレッドは明確な返答をしなかった。ダミアンは“母さんが襲撃にくる”とほんの小さな可能性であることをさも起きうる事態のようにタイトルに乗せメールを送信した。結果、駒鳥達を集合させることには成功したが集まった彼らの様子は明らかに変であった。自分が不在の間に何があったかを問い質すも、まだ少年であるダミアンに真実を伝えてくれる者は誰一人としていなかった。
「もういい!じゃあ父さんの近況だけでも教えろ」
「アイツのことなんて、もうどうでもいい」
吐き捨てるようにして言ったのはジェイソンであり、いつもならば『まぁまぁ』と穏やかに仲裁するディックも沈んだ顔で一言も喋らなかった。変わりにティムが口を開いた。
「ダミアン、僕らは今ブルースと断絶している」
「あぁん?」
どういうことか問い質そうとしてダミアンは口を閉じた。兄弟達の醸し出す空気と怒りはいつもの家族喧嘩よりも幾らか複雑性を増しており、そしてどうあってもそれを自分に教えてくれる気はないだろうことが伺えたからだ。
「そうかよ、じゃあいい。お前らなんか頼りにしない。自分で調べる」
だが、あの晩ブルースと駒鳥が言い合ったケイブの監視カメラ映像は全部ティムが消去していた。ダミアンはやっぱりなと呟くと、ぐるりとケイブを見回り、お目当てのモノを見つけた。それは頭上できぃきぃと鳴いている蝙蝠達だった。ダミアンは前々から遊びと実験を兼ねて、ケイブの蝙蝠数匹に監視カメラを勝手に取り付けていた。その事実は兄弟もブルースも知らなかった。唯一知っているのはケイブを掃除するアルフレッドであったが、彼はあえてそれを野放しにし、今回もわざとそのままにしていた。病んでいく主人をダミアンが救ってくれるのを願っていたからだ。

お目当ての映像は見事に記録されていた。ダミアンはそれを観て、ブルースがケイブに帰ってきた時点で明らかに様子がおかしい点や駒鳥達がブルースを責めた事、一人残されたブルースが崩れ落ちる様を目の当たりにした。父親の辛そうな様子に胸が苦しくなったが、その後に沸き溢れたのは凄まじい怒りだった。

再度ダミアンに呼び出され、兄弟達を渋々集まった。
「お前らは自分のことしか考えてないッ!!」
開口一番、ダミアンは駒鳥達がブルースに放った言葉をあえて引用し怒鳴った。その言葉に、ダミアンがあの夜の口論を知ったとわかった兄弟達は驚いた。
「父さんが今、どんな気持ちかわかるか?!」
「さぁな。楽しくやってるかもな」
「ブルースならあの男と一緒にいるよ。僕らがこんなに心配してるなんて知りもせず」
「何も知らないのはドレイクお前の方だ!」
いや、お前だけじゃないと言いながらダミアンは他の二人にも視線を配った。
「心配ってもんは相手に悟られたらただの重荷だ。心配してる自分達を可愛がって欲しいんだろ。父さんのことをいつも考えてるんだってアピールしたいだけだ」
「そんなつもりは」
「ない。なんて言えるのか?」
「……そう、だね…」
ディックが呟き、ティムもジェイソンも口を閉ざした。
「あの晩、父さんは傷ついてた。最初から最後までなッ!!父さんを理解できるのはオレだけだ。父さんが言いなりにならないからって、だだこねて、投げ出して、指くわえて泣いてるガキにはなりたくない。オレは…オレが納得するまで父さんを護る」
兄弟達は自分達の浅はかな行動に反省をしたが、ただ一つだけ納得いかないことがあった。
「ブルースを理解できるのは僕だ。ずっとずっと誰よりも長く傍にいたんだから。初代ダイナミックデュオはー」
「違う。あいつを理解できるのは俺だけだ。俺は死んであいつのー」
「え、みんな本気で言ってるの?僕が一番ブルースのことわかってるに決まってるでしょ?じゃなきゃ優等生としてやってー」
「あぁぁあああっ黙れ!!図々しい奴らばっかりだな!!」
いや、お前に言われたくないと皆思ったが口には出さなかった。
「オレは今から父さんの所へ乗り込む。お前らは?どうする?」



皆でウォッチタワーに向かっている途中、ロケットの受け入れ要請のためタワーに連絡をとると、モニターの向こうで職員やヒーロー達が慌ただしく動いていた。誰も彼らの通信に気が付いてはくれず、ダミアンが声を張り上げていると画面の端からダイアナが出て来た。開口一番「大変なことになったの」と彼女は告げた。
バットマンと他数名のヒーローが、未開の惑星での任務中、怪物に襲われ、その際仲間を庇ったバットマンが大怪我を負ったというものだった。劣勢の中、なんとか応援要請を出すことが出来、先ほどスーパーマンとホークガールが他のヒーロー達も連れて救援に向かったばかりだった。
「僕らも行きます!」
『いいえ、それは許可できないわ』
「お前らなんかに父さんは任せられない!オレも行く!場所を教えろ!」
『貴方に何が出来るの?正直に言って“邪魔”になるわ』
顔を真っ赤にさせたダミアンをジェイソンが後ろに下げさせた。ティムはその通りですとダイアナの言葉に同意を示した。
『貴方達の気持ちもわかるけれど……お願いわかってちょうだい』
「えぇ」
『バットマンを愛しているのは貴方達だけじゃないのよ。私達が全力をかけて絶対に助ける。お父さんを返すって約束するわ』

タワーに到着した駒鳥達は搬送口に集まりみな閉口していた。待機している医療スタッフが現場と通信している声を耳にしながら彼らは戦々恐々としていた。
「今、向かってきているそうだ」
スタッフは駒鳥達にそう言うと、別のスタッフに輸血の準備をしろと指示を出した。ダミアンが飛び出した。
「おれの血を使え、俺は父さんと血が繋がってる!」
以前にバットマン自らが保存していた血液があるとスタッフが説明していると、負傷者達がタンカーに乗せられ搬送されてきた。最も傷の深かったブルースは、タンカーによる振動を避けるため宙に浮いたクラークに抱かれた状態で入ってきた。左脇腹がばくりと裂け、血濡れたダークスーツがてらてらと照り、地面には血痕が点々と続いていた。駒鳥達が一斉に群がり彼の名を呼んだ。か細い呼吸の中、死人のように青ざめ唇までもが白くなっているブルースの瞼がピクリと動き静かに開かれた。薄く取り戻した意識のふちで、ブルースは家族の幻覚を見た。都合のいい自分の脳味噌に笑いそうになった。

その昔彼は、死にゆく時に見たい光景を考えた事があった。今目にしている光景はまさにそれに近かった。ここにいるはずのない息子達。さんざ傷付け、人生を奪ってしまった息子達。虚像でも彼らに逢えたということが嬉しかった。微笑を浮かべ、ブルースはまた意識を失った。大量出血したことによる意識消失だった。father!と連呼するダミアンをディックが抱き押さえた。ブルースはクラークに運ばれ治療室へ入って行った。

数時間後、ICUに入れる許可が出た瞬間、駒鳥達は雪崩れ込むようにしてブルースを取り囲んだ。彼はまだ眠ったままであったが、顔色は血の気を取り戻し、浅くはあるが規則正しい呼吸をしていた。

バーから戻るなり、一連の事件の報告を受け、ハルとバリーも病室に駆けつけた。だが家族が来ている状況にハルは尻込みをした。「行きなよ」と入室を戸惑うハルの背中をバリーが優しく押した。
入室してきたハルを見て、駒鳥達は固まった。一方のハルもブルースに繋がるチューブ類の多さに事態の深刻さを理解し固まった。容態を確かめるのが怖かった。おそるおそるベッドに近づいた時だった。ダミアンが目前に立ちはだかった。
「お前、父さんに酷いことしたろ?」
ダミアンとハルの目が一つのズレもなく合わさった。そのコンマ数秒で、ハルはダミアンの言う“酷いこと”が、実際に自分がした事と合致していると直感した。驚くぼど素直に言葉が零れた。
「あぁ」
話について行けず困惑の色を浮かべている他の駒鳥達の方をみてハルは「無理矢理やった」と告げた。
「な……にを…?」
ティムの声は震えていた。現実と夢の狭間にいるような恐ろしい感覚が彼を襲っていた。それはティムだけではなかった。ディックとジェイソンは息をするのを忘れたように固まっていた。
「レイプした」
そんな、と呟きティムは崩れ落ちそうになりディックに支えられた。
「僕はブルースになんて酷いことを……」
酷い後悔と申し訳なさに襲われてティムの顔が蒼白になっていった。「お前だけじゃない…」ジェイソンの声も震えていた。そんな中、ディックだけは衝撃のあとに罪悪感では無いものが込み上げていた。目の前で項垂れている男への殺意が。
そんな中、ダミアンだけは表情と態度を崩さないままハルに詰め寄った。
「お前は父さんを傷付けた。近付く権利はない」
「……」
ハルには言うべき言葉が無かった。まさにその通りだと思ったからだ。無言で踵を返し部屋を出ようとするハルの背中に、ダミアンが感情を投げつけるようにして叫んだ。
「この腰抜け野郎っ!お前みたいな腑抜けには父さんは絶対に渡さない!!」

ハルが部屋から出てくるとバリーが待っていた。防音ではない部屋からは先程の声は丸聞こえだった。彼はいつもの速さなどまるで嘘のような緩慢さでハルに近づき肩を叩いた。
「ハルがもう馬鹿しないように傍にいてあげるよ」
「馬鹿って……これ以上、どんなピエロになれるってんだよ」
「例えば年下の子達に全力で謝るとか」
「……そんなこと出来るかよ」
しばらく歩き、通路の角を曲がる一歩手前の事だった。
「あのさ……俺の骨、拾ってくれよ」
言うなりハルは病室に向かって駆け出した。その背中を見つめバリーが呟いた。
「頑張れ」

再度現れたかと思うと、頭を深々と下げ謝罪の言葉を繰り返し始めたハルのことを駒鳥達は無表情で見つめていた。その静けさを破ったのはダミアンだった。
「……わかった」
彼は自分が陣取っていたブルースの隣をあけた。死刑台へ向かうかのように、天国への階段を登るかのように、絶望と希望が混濁する中、ハルはゆっくりとブルースに近づき、そして頬に触れた。その温かさに彼は泣きそうに顔を歪めた。
「ブルース…」
惨めにも掠れた声には、十分に愛情が詰まっていた。駒鳥達は静かに席を離れた。


数時間後、目覚めたブルースの隣にはダミアンだけがいた。ブルースは息子を手招きすると掻き寄せるようにして抱き締めた。自分の身に起きた自業自得の愚かな出来事を何も知らない我が子だけがブルースを保ってくれる貴重な存在だった。
離れて欲しくないという願いが籠められた苦しいほどの抱擁に対し、ダミアンは臆することなく抱き返した。そのまま数分が経過した頃、駒鳥達とハルが病室に入ってきた。ブルースは明らかに緊張し、ダミアンをより強く抱きしめた。苦しさに眉根を寄せつつも、ダミアンは父の背中を優しく撫でてた。
「大丈夫、こいつらが変なことしたら俺が護るから」
弱まった腕からするりと抜け出た存在に、急に心許なくなったブルースが伺うように彼らを見ると、全員が一斉にsorryと声を出した。特にティムは涙目で真摯に謝ってきたが、必死に許しを乞うそれは彼には珍しく子供らしさを感じさせ、ブルースは思わず彼の黒髪を撫でてやった。感極まったティムはわなわなと唇を震わすと、鼻を啜りながら泣き始めた。ジェイソンは罰が悪そうにぼそぼそと謝り、一方のディックは半泣きの大声で縋りついてきた。各々の個性溢れる謝罪が一通り終わった後、背後に控えていたハルがブルースに近付いた。思わずブルースの肩が揺れた。その仕草にハルはぴたりと足を止め、その場で膝を付き深々と頭を下げた。その姿にブルースは目を見開き、息を止めた。
「まじで悪かった……本当に…。もう一度やり直したいだなんて都合のいい話だってわかってる。だけど……お前が許してくれるなら…」

[newpage]

5ヵ月後…

アパートの扉が軽くノックされた。ややしばらくして開かれた玄関から、笑顔のハルが顔を出した。
「よぉ、ジェイ!お前も一杯飲んでけよ」
「あんまり遅くなるとディッキーの奴にどやされる」
そう文句を垂れながら部屋に上がったジェイソンだったが、そこに父親の姿を認めるとやや距離をとった場所に腰をすえた。ほらよとハルが手渡したものはホットコーヒーだった。
「酒じゃねぇのかよ!」
「はははは!!ホットミルクの方が良かったか?」
ハルは一通り笑ったあと急に真面目な顔に戻った。
「今晩も安全に連れ帰ってくれよ」
「あぁわかってる」
二人の視線は帰り支度をしているブルースに向いていた。そうとは知らないブルースは、普段中々接する機会の少ないジェイソンと帰れることに内心喜びながらコートを着ていた。正直な話、二人が揃ったところでまともな会話が成立することは難しいのだが、ブルースもジェイソンも気まずいながらも“共にいれる”というだけで満足していた。
「お前、最近チームとはどうよ」
「別に。ぼちぼち」
そうか、とハルが頬笑んだ。駒鳥達の中ではジェイソンが最も接しやすかった。迎え役がジェイソンである事が多いため慣れたという理由だけでなく、キャラクター的にも彼は受け入れやすかった。一方のジェイソンも「面倒だ」と訴えてはいたが、ブルースと関われる貴重なこの時間を密かに気に入っていた。
ちなみに時折来るティムは相変わらずの愛想の無さで「こんばんは」と定例的な会釈をした後すぐさま帰るという非常にあっさりしたもので、稀に訪れるディックに至っては扉を破壊する勢いで入ってきて、ニコニコと笑いながらもハルをガン無視してブルースを連れ去るという人攫いさながらの様子のため未だに打ち解けることができていなかった。
このように例の事件以降、駒鳥達による父親の管理は徹底して行われていた。それがハルとブルースの交際を再開する条件の一つだった。

そして二人の肉体関係だが、進展は……していなかった。阻止されている訳ではなくハル自身の判断によるものだった。というのも、何となく良い雰囲気を感じブルースにキスをしようとした時のこと、セクシャルな空気を察知したブルースがびくりと後退すると、誤魔化すように変に笑ったからだ。それを前にしてハルはすぐさま身を引いた。
「悪かった…」
「いや…私こそ…」
ハルが申し訳なく思うのと同じくブルースもそう思っていた。ハルを受け入れたいと思う一方でキスが止まってくれたことに安著したのも事実だった。気持ちはハルを好きなままであったが、一連の騒動以降、身体は無意識に防御してしまっていた。ハルの優しさに接する度に、ブルースの焦りは膨らむ一方だった。



「もしそれに耐えられないんなら、それまでの男だって事だよ」
「……」
「ハルがね。」
「それさ…俺に言うことじゃなくね?お前、ほんと俺に厳しいよな」
「優しさが行き過ぎるとこうなるの。ほら、僕ってば速いから」
けたたましく笑う親友は何時だってハルを支えてくれていた。
「俺は待てる子ですぅ〜」
冗談めかして口にはしたが、実際、ハルはブルースの気持ちが開かれるまで待つ事を誓っていた。

一方のブルースは、初めてクラークに一部始終を打ち明けた。
「ぇぇえええええええ!君達付き合ってたの?!」
「1年以上も前からだ」
「ぇええぇえええええええええ?!」
中々進まない本題に、ブルースは相談相手を間違えたなと眉間の皺を濃くしたが、しばらくするとクラークはその包容力でもって話を全て聞いてくれた。
「そうか。じゃあ、後悔しない方を選んだらいいんじゃないかな?」
彼の意見はシンプルだったが、それは過去に何度も後悔をしながらブルースが人生を歩んで来たことを知っているからでもあった。
「簡単に言うが…」
「簡単でしょ?だって君は頭がいいもの。ねっ」
ニカリと笑ったクラークの白い歯をブルースは眩しげに眺めた。
「そうだな…」



ある日、ハルはずっと心に引っかかっていた質問をした。ブルース本人からイエスともノーとも返答を貰っていなかったことを……
「お前さ…息子とは本当に寝てないのか?」
ブルースは弾かれたようにハルを見た。
「してない」
ハルの脳裏に、自分がリングの力まで使い彼を犯した日の事が思い起こされた。
「まじかよ…。じゃあ…お前あの時のが……」
「……始めてだった」
ハルは突然髪を掻き毟るとテーブルにあったものをなぎ払い、カーテンを引き千切り暴れ出した。ブルースは呆然としてその光景をみていた。一通り荒らし終わり、荒い呼吸を繰り返しながらブルースの座るソファに乗り上げたハルは、自分も殴られるのかと覚悟していたブルースを突然抱きしめた。
「許してくれ」
「…許すも何も……始めから怒っていない」
「っくそ!……お前のこと大事にする…まじで。リングに誓う」
「誓わなくていい…」
「お前が俺を受け入れてくれる日まで何年だって待つ、本気だ」
「待たなくていい…」
「……っ」
ブルースの言葉はまるで別れ話を切り出す前のようだった。ハルは思った。最初の頃、嫌々付き合い出した事を。見限るのは自分からだと思っていたが、それがどれだけ傲慢で馬鹿だったかを。こんなにもブルースを愛してしまうなんて想像もしていなかった。さよならを受け入れる事が、自分に出来る最後の償いであり愛情だろうと、目をきつく閉じブルースの言葉を待った。
「ハル…、どうした?目を開けろ」
ハルが薄らと目を開けると、頬を上気させたブルースと目が合った。ブルースの瞳が一瞬泳いだが、意を決したようにハルに焦点を合わせると唾を飲み込んだ。
「頼みがある」



数ヶ月後、二人は任務のためウォッチタワーから小型宇宙船に乗り別の惑星に来ていた。任務は滞りなく終わり、あとは船内で一晩を過ごしている内に、翌朝にはウォッチタワーに帰還できる予定だった。
やや気まずい沈黙の中、二人はベッドの中にいた。
ここでは駒鳥達の監視もなく、もしされていたとしてもすぐに手出しはできない場所にある。それを踏まえた上で、二人は今日、ブルースが頼んだ事を実行しようと約束をしていた。ブルースの言葉はこう続いていた。

『頼みがある……私を抱いてくれ』

シーツに包まれている二人はすでに一糸も纏っていなかった。ハルが腕の中にいるブルースを抱きすくめると、固く緊張している身体がビクりと震えた。
「無理ならやめる」
「…いい、できる…」
「わかった……じゃあちょっと待ってろ。お前のために色々用意したんだ」
ハルは近くに転がしていたバッグを手繰り寄せると、中からローションやコンドームを取り出し始めた。その生々しさにブルースが目を真ん丸に見開き沈黙した。ハルは自身の掌に出したジェルを人肌まで暖めると、ブルースに向き直った。



「っあ、あ…あぁ…」
荒い呼吸がベッドの上で響いている。ハルとブルースは膝立ちの状態で抱き合いながらキスを交わし、片手でお互いのペニスを擦っていた。ジェルのねちゃねちゃという感触が体液と混ざり合い、水っぽくなったものが太腿を垂れていった。ブルースの腰がびくびくと跳ね、腰が落ち始めた。ハルはそんなブルースをゆっくりベッドに横たえさせると、彼の睾丸を撫でその後ろにあるアナルに向かって指を進めたが、それに気づいたブルースは慌てて股を閉じるとハルの手を払った。男にとっては排泄器官であるそこを愛撫されるにはブルースのプライドが許さなかった。
「ほぐさねぇと、このままじゃお前が怪我する」
「…っ嫌だ」
「嫌って言ったってなぁ…。俺はお前が痛がるのは見たくない。いれるの止めるか?」
「嫌だ…」
理不尽な訴えではあるが、やや涙目で訴えられれば負けるしかなかった。ハルは言いようのない熱さを胸に覚え、ブルースを抱き締めた。
「わかった」
ハルは自身の勃起したペニスにコンドームを被せると、ブルースのアナルに塗りたくりたかったジェルを、代わりに自身のペニスにたっぷりと垂らした。立派なそれがジェルでぬらぬらと照り始めるのをブルースはまじまじと見ていた。自分とさして変わらない大きさではあったが、これが体内に入るとなると話は変わってくる。初めて貫通したあの時は背面だった為、それを目にすることはなかったが、これならば血が出ても当然だと彼は思った。ただあの時のハルのそれは精神的な影響で最大ではなかったことをブルースは知らなかった。
「それ…」
「ん?」
「それを入れるのか…?」
「まぁ…な……怖かったらやめような」
ブルースは弾かれたように顔を上げると、慌てて首を横に振った。ハルは困ったように小さく頬笑むと、ブルースの額に自分の額を重ね優しく息を吐いた。
「安心しろ。そんなんでお前を嫌いになったりしない。俺の機嫌を伺わなくていい…、お前の気持ちに合わせるから無理なら正直に言え」
「……たい」
「ん?」
「っお前と……繋がりたい…」
思考よりも身体が先に動いた。ハルは噛みつく様にブルースにキスをし抱き締めた。愛おしくて愛おしくて仕方がなかった。ブルースの股を割り開くと、その窄まりに自身のモノを宛がった。
「いれるぞ。でも痛かったらすぐ言えよ」
ブルースが頷いたのを確認し、ハルはゆっくりと挿入しようとしたが蕾はすんなりとは開いてくれなかった。無理に圧迫を加えることはしたくはなかった。ブルースが良かったとしてもハルがあの夜のレイプを思い出すからだ。あの夜のことはハルにとっても痛いトラウマになっていた。
指でほくせばブルースが嫌がるだろうと、ハルは結合部に直接ジェルを垂らすと亀頭で塗りつけるにして擦った。ブルースが下肢を意識し緊張しないよう、それをしながらも片手で彼の髪や頬を撫で、優しいキスで唇や耳朶をつまんだ。興奮してきたのか、ブルースのやや硬かった股は自然と開脚されていき、蕾も柔らかさを得てきた。ハルが優しく囁いた。
「…ブルース…好きだ」
その言葉にブルースの目が大きく見開かれた。南極の氷河のような美しくも孤高さを携えたアイスブルーがハルの目を射抜いた。その神秘的な瞳を見詰め返し、ハルは一気に腰を突いた。
「アッ!!んぅ…ッ」
ブルースの顎が仰け反り、シーツの上に転がっていた四肢が跳ねた。ハルのペニスはつぼみを通過し中程まで侵入していた。
「苦しくないか?」
ブルースは潤んだ瞳を細めながら、小さく頷いた。何時の間にか彼の両腕はハルの背中に回されていた。その指先が小さく震えハルの肌を擦っていた。助けを求める先を捜しているような素振りに、ハルはそれ以上腰を進めることを止めた。ただこうしているだけでも、ハルは十分に幸福を感じていた。それは女性と寝る時に感じる“快楽”とは違った。下半身から感じるものではなく、脳で、いや心で感じるセックスがいかに幸せであるかをハルは生まれて初めて知った。足を絡め、腕を絡め、全身でブルースの感触を得ようとした。

一方のブルースも、最初こそ圧迫感と裂けるような皮膚の引き攣りを感じはしたが、今はハルと繋がれた事に感動を覚え、それ以外は何も考えられなかった。自分の身体を撫でる優しい手に傷の全てが疼いた。全身が異常なほど過敏になり、ハルから与えられる感触を逃すまいとしていた。
だが、しばらくすると彼は喜びの奥から不安を見つけ出した。ハルが一向に動き出さないのは、自分の具合が悪いからではないかと…。
「ハ…ル……、私は…何をしたら…いい?」
「ん?…はは、」
ハルの目元が優しく細まった。硬いように見えて柔らかで質の良いブルースの髪を撫でた。子供がぬいぐるみを撫でるような、母が子供をあやすような、真に愛おしいものに対して出る無意識の反応だった。
「いいよ、お前はこのままで。大丈夫だ……大丈夫、ちゃんと愛してるから」
ブルースの胸が熱くなった。下手をすれば泣いてしまいそうなほどに。顔を見られたくないと、彼はハルの喉元に額を押しつけた。くくく、っという押し殺したハルの笑い声がブルースの頭蓋に直接響いた。

完全に勃起しブルースの中に入っているハルのモノとは違い、ブルースのモノは挿入の衝撃で萎えてしまっていたが、時折キスを交えながらハルがペニスを擦っていると次第に持ち上がってきた。
何時の間にかブルースは自分の指を咥えていた。一杯一杯な体と心の逃げ道を無意識に求めている反応だった。その仕草に気付いたハルは、ブルースの目を覗きこんだが、薄らと開かれた瞳は虚ろで、意図を持ってやっているわけではなかった。『天性ってこえぇ』と思いながらも、ハルは興味本位で指を差し出した。反射的にブルースがハルの指をしゃぶった。
「うぁっ…エロ…」
ハルのペニスがどくりと脈打った。本能的に動きたいと訴えている自分の体にハルは苛立った。自分の欲に任せて、ブルースを喰う事はしたくなかったからだ。けれどもどこか呆けた顔でハルの指をしゃぶるブルースに対し、理性は負け始めていた。
「なぁ、動いても…いいか?」
「ん、ぅ」
イエスと思しき返答をもらい、ハルはゆっくりと腰を動かした。みっちりとキツイ程にハルを包んでいた肉壁が、奥へ奥へと誘うように収縮した。性器へ与えられる快感は膣以上に思え、ハルは思わず眉根を寄せブルースを見た。男がこれほどまでに気持ちいいとは思えなかったからだ。だがブルースの顔を見てハルは後悔した。男とも女とも言えない、何か美しいものが白い咽を曝し息を吐いていたからだ。妖艶としか言いようがなかった。この中に自分は入っているのだと思った瞬間、ハルはより一層興奮した。ブルースの腰を掴み、揺すり始めた。

一方、ブルースはダイレクトに与えられる内部の感覚と、愛する人物からそれを与えられているという事実に眩暈すら覚えていた。
「ん、っふぁ、ッぁ」
ブルースはハルの指を口から離し、噛み締めた唇の隙間から息を漏らしていた。揺さ振られる度に鳴く声は切なげで、噛み締めている唇が切れそうだと懸念したハルは、ブルースの息を逃がさせるために舌をねじ込み開口させようとした。だが何を勘違いしたのか、ブルースはハルの舌に舌を絡ませ始め、更に呼吸を荒くし始めた。可愛らしい勘違いにハルが思わず微笑むと、ブルースは嬉しくなりハルの背に回していた手を徐々に滑り下ろしハルの尻を掴み自分に引き寄せた。『もっと深く来て欲しい』それを意味する行動を無意識に取り出したブルースに、嘘だろコイツと思いながらもハルは自分を求められているようで堪らない気持ちになった。
「ちょっと激しくするぞ。痛かったら言えよ」
ハルのピストンに合わせ「あっあっあっ」という断続的な喘ぎ声が上がった。聴覚的な興奮も相まって、ハルはいつもより早く射精しそうだと思いペニスを引き抜いた。コンドーム越しだとしても、ブルースの中に注ぐのは純粋なものを穢すようで気が引けたからだ。

だが引き抜いたコンドームに血がついていたことで、ハルのペニスは射精するタイミングを失った。思わずブルースのアナルと顔を交互に見やった。アナルからは泡立ったジェルに鮮血が混じったものが垂れ流れシーツを汚していたが、ブルースの顔は緩い笑みを浮かべていた。
「お、おい、大丈夫か?!」
「ん?う…ん…」
実際にブルースは痛みを感じてはいなかった。ハルと繋がってしまったという嬉しさと、もう以前の自分には戻れない、駒鳥達はどう思うだろうという複雑な感情が湧き、頭が霧がかったようにぼんやりとしていた。
「おまえ大丈夫って…血が出てるぞ。本当に痛くないのか?」
しつこく聞いてくるハルの声で意識を現実に戻し始めたブルースはハルが射精していないことに気が付いた。ブルースが股を開こうとすると、ハルが急いで止めた。
「やめだ、やめ。いいからお前は寝てる」
現状について行けず、乱れた身体を投げ出しているブルースは、獣からすれば最高級のご馳走が転がっているのと同じ状況だった。ハルは理性を総動員させベッドから駆け下りると、風呂場で抜きに行った。ハル的にはブルースの体を思ってそうしたのだが、説明もないままそうしたことで、風呂場から出てくるとブルースが不安気な表情で待っていた。ハルは自分の失態に眉根を寄せた。
「わりぃ…、その…」
何と言ったらいいのかよりも、自分が何を言いたいのかがわからなくなり、ハルはベッドに乗り上げると、ブルースを抱き締めた。
「痛みは?大丈夫か?」
「ん…あぁ」
ハルはキスをするとブルースのペニスに手を伸ばした。びくついたブルースの腰を支えペニスを擦れば、程なくしてハルにしがみついたままブルースは彼の手の中で達した。すまない…と呟き、ハルの手についた自分の精液を耳を紅くしながら拭くブルースのことが余りにも愛おしく感じ、ハルは彼の顎を掴むと深いキスをした。くちゅくちゅと下半身が交わる様な音を鳴らしながらのキスはしばらく続いた。苦しくなり互いに息を切らしながら離れた。ブルースの口端から垂れている涎をハルが親指で拭った。ブルースは自分のモノをハルが抜いてくれたように、自分もハルのモノを抜こうとして手を伸ばしたが、その手はハルに止められた。
「俺のはいい、もう済んでる。疲れたろ、シャワー浴びてこいよ」
「…すまない」
「ん?」
「私が不慣れなせいで……お前はイけなかった…」
「いや、十分気持ち良かった。ありがとな」
「…次はベストを尽くす」
「はは、楽しみにしてる。でもゆっくり進もうな。そういえば、今日が何の日か知ってたか?」
「?」
「付き合って2年だ」
以前のハルならば、自分がこんなことを言い出すなど死んでもないと思っていた。よりによって蝙蝠男に。その上、記念の花束もベッド下から取り出すという鳥肌が立つことまでして。「笑えよ」と馬鹿にしろという意味を込めて言ったが、ブルースは嬉しそうにはにかむとハルに抱きついた。



翌朝、ハルが目覚めると隣にブルースの姿はなかった。すでに小型宇宙船はウォッチタワー内部に接続されており、職員が点検と清掃のため入ってきていた。
昨夜のことは全て夢だったのかとハルは頬を掻いたが、部屋の隅には昨晩ブルースがシャワーを浴びている間にハルが取り替えたシーツが丸まり、ダストボックスにはティッシュやゴムの袋が転がっていた。その小さな形跡は二人が繋がったことを示していた。

タワーに下りてきたハルは食堂でブルースを見かけ駆け寄った。朝の挨拶と共に肩を叩いたが、ブルースは恥ずかしさからまともにハルの顔を見れず足早にその場を立ち去ってしまった。カウルで防御された顔でも、滲み出る照れが垣間見え、ハルの口元が思わず緩くなった。丁度その時、トレーに大量の朝食を乗せたバリーが通りがかった。ハルはバリーの腕を掴むと我慢できないとでもいうように言い放った。
「どうしよう、俺まじでアイツのこと好きだわ」
「は?今更なに?いつも言ってるじゃん」
まじで砂吐きそう、とバリーが舌を出した。




2017/2/10 ―吐き捨てるなら唾より砂を―


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