テリー・マクギニスは悩んでいた。

自覚しだしたのは数ヵ月前。確信したのは昨日。彼女のデーナに告げられた言葉が決定打だった。
『私達には未来があるけど一緒には歩めないのね。だってあなたの心の中から私は追い出されちゃたから』
泣き濡れた顔で微笑んだ彼女は、溶けきったクリームソーダとテリーを置いて席を立った。反射的に追いかけようとしたテリーを制し、彼女は同情するかのような表情を浮かべ、ゆったりと瞬きをした。
『好きなだけじゃ駄目なのよ、テリー』


スプリングの軋みが早くなり、そして止まった。とくとくと自分の中から熱いものが流れていくのを感じながらテリーはブルースの上に重なった。首筋を吸っていると耳元でブルースが吐息混じりの声を出した。
「……テリー抜きなさい」
「やだ…まだ中にいたい」
「このままじゃ汚れる」
すでに萎えたペニスとゴムの隙間から精液が漏れ出しシーツを汚し始めていた。それでもテリーは嫌々と頭を振り、抱きついたまま離れようとしなかった。
「いいから一度抜け」
「ってことは二度目もしていいの?じゃあ次は生でもいい?」
「……わかった」
テリーはようやくブルースの体内から抜き出ると胯間を彼に突き出した。ブルースは特に動じることなく、精液の溜まるゴムを外してやると、器用に装着口を縛りダストボックスに投げ入れた。その様子をテリーは嬉しそうに眺めていた。彼はブルースの長く美しい指が好きだった。繊細でスマートな手つきも、けれどいささか乱雑なところも。
「まだ勃たない、ねぇお願い」

フェラの途中で乱れた髪を整える仕草も好きだった。ブルースの熱く薄い舌も大好きだった。テリーのそれを舐めてくれる時も、舌同士で絡め合う時も、ブルースの舌はまるで指のように動いた。ブルースは持ち上がった桃色の雄から口を離し、テリーをゆっくりとベッドに倒すとその上に股がり沈んだ。テリーを包み込む肉厚が圧迫感と心地良さを感じさせた。テリーの胸に置いた手を支点にゆるゆると動くブルースは唇を噛み声を殺していた。突き上げれば微かに開く唇にテリーは釘づけになっていた。
「あっ、ん、はぁ、もう無理っ」
まるで抱かれている側のような声を上げながらブルースの腰を支えると、細身の身体からは想像できない力で反転し、ブルースの上に重なり口腔内をしゃぶった。糸の引く唇を離しテリーはうっとりとブルースを見詰めた。
「俺の味する?」
「ぁぁ」
「美味しい?」
ブルースは何も答えず、テリーの手を取ると軽く口づけた。興奮したテリーが強く腰を打ち付けるとシーツを握り締めながらブルースが呻いた。
「て、りっ…!待て、このままだと、またすぐ抜くことになるぞ」
テリーは自身を落ち着かせるように息をつくと、結合部を密着させブルースの瞳を覗き込んだ。薄いアイスブルーに自分の顔が映っていた。余裕のない顔をしている自分に恥ずかしくなり、青年はブルースの首筋に顔を埋めた。
触れ合う肌は暖かく、何故か涙が出そうになった。背中を優しく撫でてくれていたブルースの手が次第に緩いものになり、テリーはゆっくりと顔を上げた。アイスブルーの瞳は虚ろで、瞬きの度に閉ざされてしまいそうだった。
「眠いのブルース?」
「んんー…」
「寝ちゃったら中出ししちゃうよ、いいの?」
「ん……」
悪戯心に火が付いた。テリーはブルースを開脚させるとその膝に手を掛けスパートをかけた。
「あっ、あっ、あっ」
断続的に聞こえる低めの嬌声が、テリーの興奮を更に盛り上げた。ブルースの内部で若い雄がびくびくと脈打ち、暖かいものが広がっていった。
「どうだった?」
嬉々した顔で聞いてくる若者に辟易としながらも、ブルースはテリーの頭を撫でた。にんまりと微笑み、テリーはブルースを強く抱き締め、良い香りのする髪の毛に鼻を埋めた。
「俺もすごい気持ち良かった。ブルース…好きだよ」
“好きなだけじゃ駄目なのよ”
瞬間、デーナの言葉が蘇った。彼女の言葉はテリーを酷く不安にさせた。眠りについたブルースを何度か呼び覚まそうとしたが、彼は起きてはくれなかった。「寂しいよ…ブルース…」と呟き、テリーは身体を密着させ目を閉じた。



テリーには愛しい人が二人いた。デーナと、そしてブルースだ。彼と肉体関係を持ってもうしばらくになる。始まりは興味本位。ブルースの色香に若い性欲が黙っていられるわけがなかった。殴られるのを覚悟で誘えば、意外な事にブルースは『一晩考えさせてくれ』という返答を残し、翌晩テリーは初めて男を抱いた。それはテリーの想像を優に超えていた。快楽とはこういうものかと驚嘆するほどに。

ブルース・ウェインは厳しい。殊更、テリーがバットスーツに身を包んでいる時は。だが、その厳しさはテリーの身を案じるがゆえであり、命の危険を顧みずテリーを救い出す事もあった。時には口煩く叱られウンザリする事もあったが、任務が終わればテリーにしか見せない顔でもって、青年を慈しみ、多くを与えてくれた。自分のために全てを捧げてくれる人を愛さないでいられるわけがなかった。いつしかテリーの中で二人の関係は、快楽だけで片付けることが出来なくなっていた。

一方、ブルースはこの関係を若気の至りだと割り切っていた。テリーには行く行くはデーナと結婚して家庭を持って幸せに暮らして欲しいと考えていた。まだ年若い二人に万が一の事があればと、彼は捌け口としてその身を明け渡した。ただここ最近は抑えの効かない獣のように迫られる事が多く、明らかに頻度も増していた。

デーナと別れてから一ヵ月が経ったある日、コンドームもつけずに性急に覆い被さってくるテリーを、ブルースはようやく制することができた。待てを命じられた犬のように、テリーは荒い息をつきギラついた瞳でブルースを睨んできた。
「いいかテリー。私だからいいが…恋人にはこんな無体はよせ。避妊には十分気をつけろ。もしなったとしても浅はかな決断はするな」
「浅はかってなにさ」
「堕胎だ。テリー、古臭い考え方だと思うだろうが、男としての責任を負えないのなら女性を抱くべきではない。いいな?」
「……気をつけてても、なる時はなるだろ」
「はぁ…。そうなった時は結婚資金も生活費も全て面倒をみる。だから」
「そんなの必要ない。デーナとは別れたから」
「は?」
「俺……あんたが好きだ」
ブルースは狼狽した。告白された事ではなく、自分が思い描いていたテリーの将来が失われたことに。そしてそれを奪ったのが自分だという罪の意識にも襲われた。
「テリー、よく考えろ。気の迷いだ」
「考えた…考えすぎてもう疲れた」
「何ということだ…私が甘やかしたせいで…、テリー今ならまだ間に合う。恋人の元に行け」
「なんでさ」
「お前には未来がある。だが、私には……わかるな?」
「聞きたくない」
ブルースの言わんとしている事はテリーにも十分にわかっていた。抱えていた不安を言葉に出されテリーはショックと怒りで泣き出したくなった。唇を強く噛み締め俯いた青年の様子にブルースは戸惑ったが、ここでいつものように甘やかすことで道を誤らせたくなかった。
「抱かせてくれないの…?」
「テリー、今日は帰ってよく考えろ」
「最悪」
吐き捨てるように言い残し、テリーはベッドから乱暴に降りた。不貞腐れた態度を隠しもせず、床に散乱している服を着込んでいる青年を眺めつつ、ブルースは痛むこめかみを押さえた。過去にもデーナと不仲になる時期はあった。今回のそれも一時的なものであって欲しいと願った。



「マクギニス!!やる気がないのなら皆の邪魔になるわ!教室から出て行きなさい」

返事もせずに、テリーは教科書を机に投げ捨てると教室から出ていった。張詰めた空気に生徒の大多数は怯えていたが、デーナと親友のマックスだけは心配そうにその後ろ姿を見ていた。

バットケイブのコンピューターであれば0コンマで弾き出される計算を馬鹿丁寧に考えることに何の意味があるのかテリーは考えたくもなかった。生きていくのに必要な知識など教科書には一つも載っていない。テロから身を守る方法や護身術の方がよほど役立つというのに。
『知識が未来を作る』
さきの物理の教師が自慢げに言った言葉を鼻で笑ったがゆえにテリーは今廊下をうろついている。だが彼にはどう考えても笑う場面にしか思えなかった。そんな形も質量も無いもので未来が作れるのならば喜んで勉学に励む。だがどこをどう探究しても、テリーの求める未来など存在していないのだ。
“くだらない”
そう思った瞬間、テリーの拳が窓ガラスを割っていた。


「テリー、学校の先生から連絡があったわ。あなたの態度がなってないって。どういうことなの?」
テリーは何も答えなかった。視線はテレビに、クロスさせた両足をコーヒーテーブルに乗せポップコーンをかじる姿に母の怒りはヒートアップした。
「窓ガラス、いくらすると思ってるの!?」
なおも無視を続けるテリーの横に、走ってきた弟がダイブし真似をするかのようにテーブルに足を乗せた。
「まぁ!!お兄ちゃんの真似はやめなさい!!」
母に怒鳴られ、弟は悲鳴を上げながら逃げていった。その姿を呆れる様にテリーが見ていた。
「テリー、お父さんはあなたに未来を残したのよ!あなたには立派に育って欲しいの」
「未来、未来って、またかよ…」
テリーには未来があるそうだが、テリーの手にはそんなものはなかった。テリーには見えないそれを、皆が「ある」と答える事が腹立たしくて仕方がなかった。
「未来なんてどこにも落ちてない。父さんは“責任”しか残していかなかった。ただ死んだだけだ!!」
母が手を振り翳した。
乾いた音の後、テリーは部屋に駆け込み泣いた。頬ではなく胸が痛んだ。叩かれた理由は分かっていた。もし誰かが自分と同じことを言ったのならばテリーなら殴っていた。何も悪くない父を罵倒してしまった己が嫌で仕方がなかった。


その夜、黒い使者が街を暴れ狂った。いつもよりも激しいバットマンに、チンピラ達は逃げ惑った。テリーの耳に許しをこう叫びが聞こえたが頭には届かなかった。彼の頭の中には同じ言葉が何度も何度もループし続けていた。

『私達には未来があるけど、一緒には歩めないのね』
『お前には未来がある。だが私には…』
『お父さんはあなたに未来を残したのよ』

「うるさいっ!未来なんてない!!未来なんてッッ!!!」
頭を掻き毟って血と共に言葉を流れ出したかった。彼らの言葉は脳髄にまで抉り込みテリーを苦しめた。
陰惨な雲から雨が降り注ぎ始め、灰色のコンクリートで覆われた街は更に暗さを増した。興奮に熱くなっているテリーの身体が急速に冷えていった。

一時間後、テリーは灯りの消えた屋敷の窓辺に佇んでいた。唇がかたかたと震えていた。バットスーツに守られた体は保温が効いてはいたがマスクを外した剥き出しの顔はびしゃびしゃに濡れていた。
主は勘がいい。そしてその飼い犬は更に。窓辺に近づきエースが吠えた。程なくしてブルースがガウンを羽織って現れた。青年を迎え入れ、その姿を上から下まで眺めた後、テリーの目に掛かっている邪魔くさそうな前髪を払い覗き込んだ。
「どうした?…まぁいい。そこに座っていろ。タオルを持ってくる」
テリーの指先がガウンの裾を掴んだ。
「ブルース…俺、苦しい……苦しいんだ…」
うわ言のようにそう繰り返すテリーの手を取り引き寄せると、ブルースは頭一つ分下の黒髪に口づけをした。
「大丈夫だ」

子供のように泣きじゃくったあと眠りに落ちたテリーを抱き締め、ブルースはずっと目を開けていた。静かな室内には、時折鼻を啜る寝息だけが聞こえていた。本当は突き放した方がテリーの将来の為には良い事はわかっていた。『今だけだ』『立ち直るまでの期間だけ』『いつかこの子も我に返る』そんな言い訳を自分の中でしている事にブルースは気付いていた。

翌朝、泣き腫らした目をして帰ってきた息子に、母は何も言わなかった。ただ、その日テリーに持たせたランチパックはいつもよりも少し豪華で、テリーの好きなチキンが3本も入っていた。

テリーを傷つける人々は、同時にテリーを癒してくれる存在で、それは彼を惑わせ疲弊させ辛くさせるのだった。



辛さを吐露する方法は幾つかある。女子であれば友人同士で愚痴を言い合うかもしれないが、男子の中には性欲と共に吐き出す者は少なくない。
3度目の射精で、ようやくテリーはブルースから離れた。やっと解放されたとブルースは早鐘を打つ心臓を押さえながら、深呼吸を繰り返した。そんなブルースのプラチナの髪に口づけをしながらテリーは先程から同じ言葉を繰り返していた。
「ブルース、好き…好きだ…大好き…」
セックス中であれば微笑み返し、流せれていた言葉であったが、何もしていない今、ブルースは返事をする手段を持っていなかった。その言葉に返せられる言葉など持っていなかったからだ。テリーの意識をそらすためにチョイスした言葉はミステイクだった。
「デーナと仲直りはできたのか?」
途端にテリーの興奮は霧散した。なんで今?という怒りと疑問を浮かべた顔を全面に出しテリーは答えた。
「仲直りする必要なんてない」
「……じゃあ、他にいい子はいないのか?」
うるさい黙れよと言うよりも先に「お前ならモテるだろうに」と呟かれた言葉にテリーの雰囲気がやや和らいだ。
「そう思う?うん、俺モテるよ。ねぇブルースは俺のこと好き?ねぇってば」
絡めてくる足を無視しブルースは枕に顔を埋めた。尖った耳を甘噛みしながらテリーはブルースを抱き寄せた。

ブルースが醸し出す拒絶の態度は自分を案じての事だとテリーにはわかっていた。未来を見据えた話をしてくるのも自分の為を思っての事だと。愛されているのだと思えた。だからテリーもブルースを愛したかった。愛して幸せにしてあげたかった。けれど、その未来を叶えることが不可能に近いほど難しい事もわかっていた。男同士、年齢差、社会的に受け入れられない。幾つものネガティブな要素が転がり、それは容赦なくテリーを転ばせて傷だらけにさせるのだった。


「はっきり言って未来が閉ざされてる」
友人のマックスはテリーの言葉に溜息を零しパソコンを閉じた。
「あのねテリー、考え過ぎじゃない?少し気楽に考えようよ。ウェインさんだって、あんまりマジで来られると困ると思うの」
「もう困ってる」
「はぁ〜…ねぇ、隣のクラスのマドンナ、あんたを狙ってるそうよ」
「あの赤過ぎる口紅を落とすんなら考える」
「あはは!!言えてる!」

調べものがしたいというマックスを図書室まで送り届けた後、テリーは一人で廊下を歩きながら考え事をしていた。
マックスの言うように気楽に考えて、今をのらりくらりと生きてどうなるのか。テリーの“好き”に振り回されたブルースが取り残され、愛する人を孤独に突き落とす自分が残る、だけ。ただそれだけのことかもしれないが、それはテリーにとってはまるで世界が暗転したかのような最悪のシナリオに思えた。

「マクギニス君、ちょっといい?」
振り向けば噂のマドンナが連れの女子二人を両脇に携え微笑んでいた。自分を際立たせる為に自分よりも劣ってる女子を侍らしてるのよと、以前デーナが嫌悪感丸出しの顔で言っていたのをテリーは思い出した。
「デーナと別れたって本当?」
「あぁ」
女は視線を斜め下に持ていき、やや考える素振りをした後、顔を上げ笑んだ。
「ねぇ今晩ステイラー通りに新しく出来たクラブに行こうと思うの」
「へぇ……それで?」
「意地悪な人ね」
「俺も行きたいのは山々なんだけど、バイトが入ってて」
「たまには休んでもいいんじゃない?お給料よりもいいものが手に入るかも?」
女がちろりと見せた舌は唇と同じくらい紅かった。


久し振りに女を抱いた感想は、あまりいいものではなかった。
ブルースに誘導され何時の間にか身に付いていたテクニックは女を異常なほど喜ばせ、最終的には失神させたが、最中テリーが思っていた事は嬌声が耳障りだとか、触れてくる汗ばんだ身体が気持ち悪いとか、混ぜもののような質の悪い香水の匂いが無理。というもので、必死に別の人物を思い出し萎えるのだけは何とか耐えた自分を褒めたい気分だった。

テリーの隣では、女が恍惚の表情を浮かべ放心していた。可愛らしかったデーナや甘美なブルースとは程遠いその姿を横目に見て、胸からどす黒い何かが溢れ全身を穢していくような気がした。
「こんなに凄いの初めて。私達、相性がいいと思うの」
うっとりと夢見心地で語り出した女を、テリーは酷く冷めた目で眺めた。それに気付かないまま女は胸一杯の幸せを吐き出すかのように「ふぅ」と息を漏らして満足げに頬笑んだ。その顔を見た瞬間、テリーの胃がきゅうっと締まった。
「吐きそう」
え?と女がテリーの方を向くなり、彼はベッドから駆け出しトイレへ籠った。セックスする前に食べたバーガーとフライドポテトがコーラでミックスされたおぞましいソレが、便器の中でぐるぐると渦を描き吸い込まれていった。



「昨晩はごめんなさい…」
テリーが昨晩すっぽかしたバイト内容は、ブルースを共同開発事業のセレモニー会場まで送るというものだった。結局どうやって行ったの?とテリーはおそるおそる尋ねた。
「秘書が行方知れずになったから行けそうにないと連絡したら、迎えを寄越してくれた」
「そう…。で、なんで今日も出掛ける準備してるの?」
「その新規事業のリーダーが個人的に話がしたいそうだ」
テリーは2ヵ月前に秘書として参加したパーティーを思い出した。“ご鞭撻の程宜しくお願いします”と男がにこやかにブルースと握手を交していたのを覚えていた。あいつか!とテリーは顔をくしゃりと顰めた。自分のテリトリーを犯された獣は執拗なほど相手を小突き回す事がある。それに近いことを青年はしばしばブルースの周囲の人物に対して向けていた。
「俺を置いて行くの?」
「付いてきてどうする」
「……寂しいよ」
昨夜、テリーが来なかった理由などブルースはとっくに分っていた。身勝手な青年の訴えに、杖を振り下ろしてやりたくなったが、やや青褪めている目の下の隈を見るに、青年が愉しい時間を過ごせたわけではなかったことが伺え、ブルースは自分の甘さに辟易とした。
「23時までには戻ってくる」
「それまでに帰って来なかったらエースと一緒に迎えにいく。いい?」
「……あぁ、わかった」

丁度その時、屋敷の扉が叩かれた。テリーが開けば例の男が立っていた。ブルースが出ると思っていたからか、やや面食らった顔で男はテリーを凝視したが、奥からブルースが現れると笑みを取り戻した。テリーはブルースにコートを渡し「行ってらっしゃい」という挨拶の後、ややしばらくして「あっそうだ」と付け加えた。
男と共に階段を降りていたブルースがその声に振り返ると、テリーがニコリと笑った。
「ブルース、愛してるよ」
言われた本人は苦虫100匹を噛み潰したような顔を浮かべた後、凍る様に冷めたくも憤怒の籠った目でテリーを睨んだ。固まっていた男が場を取り繕う様に「可愛い助手さんですね」と言った。テリーはその光景を眺め、更に笑みを強めた。
社会復帰を遂げたブルースに纏わりつく者は少なくはない。この男のように媚を売るのが目的な輩はさほど脅威ではなかった。ブルース自身が気付くからだ。危ないのは純粋な憧れや焦がれを持って近づく者の方だった。綺麗に輝く“純粋”な者にブルースは弱い。男がそうでなかったことに青年は安著した。


昨晩、23時ぎりぎりに帰ってきたブルースは、構ってほしいと犬のように駆け寄るテリーを仕方がなく相手をし、今朝は眠い中朝食を作って食べさせたあと学校へ送り出した。酷く疲れた身体のまま仕事の案件に取りかかり、一息つく頃にはもう昼を過ぎていた。心配するエースの鳴き声に促され、遅めの昼食をとった後、しばし休憩をとった。

時を同じくテリーも疲れ切っていた。マドンナがテリーの彼女面をし追い回して来たからだ。テリーという名のブランドバックを見せびらかすような彼女の態度と言葉のアピールのせいで、周囲の嫌悪感の詰まった視線に曝された青年は、終業のチャイムと同時に逃げ出すようにして屋敷に来ていた。

最悪なんだけど…と零しながら訪れたケイブには探し人はおらず、リビングを経て向かった寝室にその人はいた。ブルースはベッドに横たわり眠っていた。風が吹き込みカーテンが靡き、日射しが白いシーツに反射していた。光を浴びたブルースの睫毛はガラスのように透んでいた。誰よりも通っている鼻筋は人形のように精巧で、少し窪んだ眼窩の陰が肌の白さを浮き立たせ、皮膚奥の静脈まで透けて見える気がした。その横にそっと寝そべり、テリーは銀糸のような白髪を撫で梳かした。うららかな午後の陽気に、先程までの疲労が溶けていくようだった。
「綺麗だよ…ブルース」
携帯で写真を撮れば、小さなシャッター音に気づきブルースが目を開けた。まだぼんやりとしている瞳と視線が絡み合い、テリーはバツが悪そうに笑った。こういう時の反応は、睨まれるかそっぽをむかれる事が9割、同じく笑ってくれる事が1割。今回は幸運な事に1割の方だった。呆れたように微笑むブルースを前にしてテリーは思った。この人に愛されていると自惚れてもいいだろうかと。



好きだと自覚すればするほど、同じくらいの愛を返して欲しくなった。愛をねだるように甘えてくるテリーは、ブルースにとって可愛いくもあったが、悩みの種でもあった。青年の未来を考えると好ましい事象ではないと思えたからだ。

穏やかな夜だった。ブルースはベッドの上で本を読み、テリーはその膝に頭を乗せて微睡んでいた。時折、眠りにつくのを拒むように顔を擦り付けては、ブルースの注意を自分に引かせようとしていた。それでも本の虜のままでいる主の片手を取ると、テリーはそれを自分の頭の上に置いた。ブルースは目線を本へ向けたまま、ベルベットのような黒髪をわしわしと掻いた。「犬じゃないんだから」とテリーが笑った。尚も大きく動くブルースの手を捕まえるとその甲にキスをした。伺うようにブルースを見上げれば、ようやく視線が青年を捉えていた。だが幸せそうなテリーとは一転し、ブルースは神妙な面持ちで本を横に置いた。
「テリー、今は私といてもいいが…いずれお前は」
「また未来の話?やめてよ」
「だが必要な話だ。私といる時間が長ければ長いほどお前は損をする」
「この時間は無駄ってこと?」
「…そうかもな」
「あーそうかよ!!じゃあこうやって口論するのも意味のない事だ!もうここに来くるなってハッキリ言えばいいだろ!!明日から来ない。それでいいんだろ?!」
「テリー…」
「俺がいくら好きだって言っても、あんたは何も言ってくれない!!身体が欲しいわけじゃない!!馬鹿にするのもいい加減にしろよ!!」
「待て!」
掴まれた腕と反対側でテリーはブルースを殴った。怒りを止められなかった。白いシーツに鼻血が点々を描き、ブルースは顔を押さえた。
「いなくなれって言ったり、待てって言ったり、どっちなんだよ!!俺に未来を押し付けてくるくせに関わる気なんて毛頭ない!!みんな自分勝手だ!!畜生ッ!!」



ここ数日間、珍しくテリーが夕食の席にいることに母は気分を良くし、食後テレビを見ていたテリーの横に座ると、コーヒーを啜りながら鼻歌混じりに話かけてきた。内容は数ヵ月後に迫っているプロムの事だった。
「勿論、デーナちゃんと踊るんでしょ?母さんのドレス着るかしら?デザインは少し古臭いかもしれないけれど、あの子なら何を着ても似合うわよ」
テリーはテレビのスイッチを切るとリモコンを静かに置いた。
「…デーナとは別れた。今は別に好きな人がいる」
母の盛り上がりとは真逆の声の低さだった。
「あ、ら…、そうなの…そう、それは残念だけど…あなたはまだ若いから、心変わりは仕方がないことよ。それで、今お付き合いしているのはどんなお嬢さんなの?」

「   」

母のヒステリックな叫びと共に、落下したコーヒーカップがけたたましい音を立て割れた。液体が音も立てずに床に広がっていった。足先にまで伸びて来たそれを、テリーは表情を変えずにじっと見詰めていた。母と息子の間を隔てる河のようなそれは、薄黒く、得たいの知れない何かに思えた。
「嘘だと言ってちょうだいテリー…、あぁ…どうして、神様、ぁあ…なんてことッ」
「母さん」
「そんなッ、信じられない!お願い、間違いだと言って、テリー!!母さんが悪かったから!」
テリーはただ静かに泣き崩れている母を眺めていた。
「私の育て方が悪かったからだわっ、ごめんなさいテリー!謝るから正気に戻ってちょうだい!!おぉ神様!!この子を助けてっ」
「神様なんていないよ。どこにも…」
狂ったように髪を振り乱し泣いている母の耳にはテリーの声は届かず、青年の存在すらも把握できなくなっていた。一人ぼっちになった空間で、悪いのは誰なのだろうとテリーは考えた。隣で泣いている母か、それをただ眺めている自分か、心をくれない老人か、この世界か。そもそもこれは悪いことなのか。

涙は出なかった。絶望が足元を濡らすコーヒーのように静かにテリーを侵食していった。目に映る全てのものが非現実的なものに見え、生きていく道が閉ざされたように思えた。



翌日の放課後、ボスからのメールは指令ではなく解雇通知だった。携帯が手から滑り落ちコンクリートの上で弾け飛んだ。テリーの目の前から世界が消え、自分が立っているのかどうかも定かではなくなった。隣にいたマックスが声を上げテリーを揺さぶったが、青年の耳には届かなかった。

テリーは投げだす様にしてバイクから降りると、家主がいるのかどうかすらもわからない真っ暗な屋敷に向きあった。屋敷のどこもかしこも強力なセキュリティでロックされ、ケイブにも入れなかった。寝室の窓を叩き「どうしてだ」と怒り叫んだ。握り締めた拳から血が滲み、紅く曇っていくガラスは一時間叩き続けても割れず、開きもしなかった。
テリーの喉が焼けるように熱くなった。叫び続けたからではない、込み上げる何かがあった。遂にテリーは嗚咽を漏らし泣き始めた。額を冷たいガラスに押し当て、弱々しい声で啜り泣いた。

「死ぬ……死んじゃうよ…助けてブルース…っ」

いつまでそうしていたかわからなかった。気付けばテリーの前に影が射していた。内側から薄らと開かれた扉を乱暴に押し開くと、テリーは雪崩れ込むようにしてブルースに抱き付いた。
「ひっく、ひっ、死にそうっ、…死ぬ、もうやだ…っ俺、死ぬの?…死ねばいいの…?」
テリーの背中や頭を優しく撫でながら、ブルースは胸を抉る辛さに唇を噛み締めた。
「俺っ…死にたくないよ…ッ」
「安心しろ…私が死なせないから」
テリーは獣のような呻き声を上げ、ブルースの肩に顔を埋めた。その晩、彼はブルースを貪るようにして抱いた。


行為が終わった乱れたシーツで体をくるみ、テリーは震えながらブルースに抱きついていた。
「母さんに何か言われたの…?」
「いずれはこうなっていた。お前の母親は悪くない。私が悪かった」
「ねぇ、なんで?母さんもブルースも悪くないよ、俺だって悪いことなんてしてないっ!これは悪いことなの?!あんたを愛しちゃいけないのか?!なんで、どうして、おかしいのはみんなの方だよ」
「テリー、これは異常な事だ」
「ぁぁああああ゛!!!」
咆哮を上げ、テリーは枕を床に叩きつけた。暴れ出したテリーのことをブルースは辛そうに見ていた。落ち着いてきたテリーの背中を撫でれば、青年はその手を払いのけた。
「未来ってなに…?それって選ばなきゃいけないものなの?そもそも、どこにあるんだよ。明日のこともわけわかんないのに、何をどうすりゃいいんだ!?」
「テリー…」
「ただ二人でいたいだけなのに…。俺もう嫌だよ……逃げれないんなら死にたいッ…」

テリーの未発達の心は悲鳴を上げ泣き叫び、縄を首に巻いて今にでも吊ってしまいたかった。
いつだってテリーの人生は、テリーに意地悪なのだ。両親の離婚、非行、少年院に入った過去、父の死、彼女との別れ、想い人との先のない未来。どれもがテリーのバットスーツを無視して、内側から切り刻み続けた。

まだ日も昇らない朝方、窓から帰ってきたテリーは、自分のベッドに座っている母の姿に表情を固くした。
「テリーどこに行ってたの?」
「どこだっていいだろ。どこに行って欲しくて、どこに行って欲しくなかったんだ」
「母さんを責めないで」
「別に責めてない」
「嘘よ、その目」
「この目はあんたと父さんが生んだ目だ!こんなものいらなかった!!!」
「っテリー」
「俺は産んでくれなんて頼んでないっ!こんな人生なら生まれるんじゃなかった!!」
母親が泣き崩れた。
口論で目覚めた弟は部屋に入ってくるなり、その光景をみてテリーの前に飛び出した。「ママを虐めるな!!」弟はテリーの足を精一杯の力で殴ってきた。その姿を冷めた目で見下ろし、テリーは脚を軽く振り弟を蹴り飛ばした。
「何てことするの!!」
母の胸に抱き締められ、泣く弟の姿が網膜に焼き付いた。

もう何もかもが嫌だった。

テリーは衣類や手近にあった物を手当たり次第鞄に詰め込んだ。母は何も言えず、ただ絶望と縋りつくような瞳を息子に向けていた。部屋を出る間際、テリーは背を向けたまま口を開いた。
「俺が非行に走った時、父さんも何も言わなかった。こんな風に。……俺はいらない子なんだろ?」
「そんな、あぁっ…テリー…っ!!!テリーーっ!!!」
窓から飛び出して行った息子に、母は必至で腕を伸ばしたが、何も掴むことはできなかった。

家出をしてきたテリーを追い返す事もできず、ブルースは屋敷の扉を開けた。いけないことだとはわかっていたが、悲愴な顔で縋りつかれれば、もうどうすることも出来なかった。



ウェイン邸から学校まではかなりの距離がある。必然的に起床時間が早くなったテリーは、欠伸をしながら終業を告げるチャイムを待っていた。ベルと同時に廊下に飛び出し、足早に学校を出ようとした。今日は表の顔でのバイトがあった。ブルースと共に来賓として式典に参加するのだ。
パーティーの豪華なディナーが目的なのではない。テリーが警戒している男が数人参加するのだ。ここ最近は、ビジネスパートナーとしてだけでなく下心つきでブルースに接触してくる輩が多くいた。二人が肉体関係を持って以降、更に妖艶さを増したブルースは本人の自覚なしに男女を魅了していた。

急ぎ足のテリーの背後から、いつぞやと同じように声がかかった。テリーは振り返ると眉を寄せた。
「テリー、どうして避けるのよ」
「いや、俺忙しいから」
「少しくらいいいでしょ?」
「ごめん、はっきり言うけど、君には興味ない」
マドンナが怒りに顔を真っ赤に染め、両脇に控えている女子がおろおろと困っていた。罪悪感は全く湧かずむしろ滑稽にさえ思えた。
「私のこと抱いたくせに!!」



「それでガッカリした」
「それはこっちの台詞だ」
ブルースの声でテリーは目を覚ました。いつの間にかテリーは普段着からタイトなライトグレーのスーツに身を包み、そして額に冷えたタオルを乗っけていた。部屋には豪華な調度品が置かれ、扉の向こう側では優雅な音楽と人々の談笑が薄らと聞こえてきた。ここはパーティー会場の別室だった。起き上がれば後頭が鋭く痛んだ。
「え、なにこれ…」
「自分を律することもできないのか」
ブルースの顔を見ているうちに、テリーは自分がしたことを徐々に思い出した。

会が始まり、ブルースに挨拶に来た男は妙に馴れなれしかった。男はエスコートを遠慮するブルースに無理矢理世話を焼いた上、そのせいで転びそうになったブルースを抱き支えたのだ。5歩ほど後ろで付き添いをしていたテリーよりも早く。大丈夫でしたか?と触れ合いそうなほど近くに顔を寄せる男のことを気がつけば殴りかかっていた。必死でテリーを引き剥がそうとするブルースを突き飛ばし、テリーは二度めの拳を振るった。その直後、杖による痛烈な打撃を受け、青年は気を失いそうして今に至るのだった。
「お前が今、生き辛いことはわかっている。だが人に当たるのはやめろ」
「じゃあ俺は生き辛いまま苦しんで、それが嫌なら死ねってこと?」
「はぁ……そうじゃない、テリー」
「なに、呆れた?みんな俺に呆れてく。俺だって…自分なんか…ッ」
ブルースの指がテリーの頬に触れた。掠めた指先から冷たい感触が広がり、そこで初めてテリーは自分が泣いている事に気が付いた。ブルースが困ったように眉を寄せ、眼元を和らげた。
「帰ろうテリー」
「……うん」



青年は苦しかった。酸素のない水槽に閉じ込められた金魚のように、毎日が酸欠状態でそこから這い出す手足も無く、不規則に揺れる水面が不安を煽ぐのだった。

教室では乱暴者のネルソンが自分の机ではない場所にどかりと座り、机に脚を掛けて雑誌を読んでいた。仲間達が取り囲む騒がしいその一か所を眺め、机の持ち主が困っていた。テリーはネルソンの前まで行くと彼が読んでいた『暴力的なバットマン』という見出しの雑誌を取り上げ、床に投げ捨てた。
発展した殴り合いはテリーの勝利だったが、讃辞の言葉は誰にも貰えず、職員室で酷く怒られた彼は「ご両親が悲しむぞ」という担任の言葉を聞いて「もうとっくにそんなの済んでいる」とせせら笑った。
教師に叩かれた頭は、何故かネルソンのパンチよりも痛かった気がした。帰り際、偶然会った机の持ち主は、テリーとの関わりを避けるかのように顔を背け、急ぎ足で通り過ぎて行った。テリーは顔を顰めながら「どういたしまして」と吐き捨てるように呟いた。

その夜、雑誌の見出し通り“暴力的”な黒い影が街を飛び回った。殴られた分を返還するかのように、何発も敵に食らわした。跳ね返る血が煩わしいと思った。
明らかにやり過ぎの領域になってきているバットマンに対して、市民の中には『彼を逮捕すべきだ』という意見が上がる一方で犯罪者に対して厳しい罰を要望している市民はバットマンの行いを擁護していた。テリーの意思を無視して、好き勝手に述べる世間は、跳ね返りの血など比にもならないほど煩わしく苛立つものだった。

今晩の活動を切り上げ、屋敷に戻る途中の事だった。暴漢に襲われている女性を助ければ、彼女は黒い化身に怯え叫んだ。バットマンを逮捕するのに警察官が来るやいなや彼女は「助けて!」と彼らに駆け寄った。警官から何発かの銃弾を喰らい、テリーは反逆を考えたが、通信から聞こえるブルースの強い制止の声に負け、上空へ退避した。

「不公平だ!!」
ケイブに帰ってくるなり、テリーはマスクを床に投げ捨てた。
「こんなクソみたいな世間のために、なんで命まで掛けなきゃいけないんだ!!こんなに尽くしてやってるのに、何の見返りもない!!俺がどれだけ頑張ってるのか誰も知らずにのうのうと生きやがって!!こんな街、護る価値なんてない!!」
「褒めて欲しくてバットマンをしているのか?」
「そうじゃない!けど、」
言葉を紡ごうとしてテリーは止まった。ブルースの手元にはネルソンが読んでいたのと同じ雑誌があった。
「……それ読んだの?…何か言いたい事でもある?」
低く怒りの籠もったテリーの声など気にも留めず、ブルースは視線を雑誌に落とすと数枚捲った。
「あながち嘘ではないらしいな。お前の先程の行動を見ていると」
「奴らは犯罪者だ!!優しくしてやる必要なんてない!!……被害者だって護られるのが当たり前だと思ってる。俺がどれだけ奴らを助けても、奴らは俺を助けてくれない!!」
「見返りを期待するのならヒーローはやめろ」
テリーは雑誌を取り上げると、勢いよく床に叩きつけ蹴り飛ばした。自分の怒りを理解して欲しかった。慰めて欲しかった。
だが待っていたのは冷たい視線だけだった。ブルースのその目にテリーは怯んだ。先程までの勢いは形を潜め、軽蔑される恐怖が青年を襲い、唇が小刻みに震えた。
「で…も…っ、でも…ッ!!」
「少し頭を冷やすんだな」
その場を後にする杖の音が遠くなり、扉が閉まれば辺りは無音となった。その静かな空間の中で、ピキ…パリ…という何かが割れる音がテリーの耳にだけ聴こえていた。

水槽に入った亀裂を金魚がじっと見詰めていた。



『何度も捕まえるの面倒だから、脚もいじゃってもいい?』
再三アーカムに送っている犯人を捕まえた時のこと、テリーはそう言うと床に這いつくばっている犯人の脚を踏んだ。通信モニターに映るテリーの奇行にブルースは唖然とした。我に返り「やめろ!」と叫ぶと、テリーは肩を揺らして笑い『冗談だよ』と犯人の頭を撫でて見せた。

ここ最近のテリーは今までの鬱々とした様子から一転し、どんな状況下においても、足が地についていないほど愉しそうに笑うことが多かった。たとえ被害者が血を流していようとも、自身が死にそうな危機的場面においても。その異様な雰囲気に、いつしか雑誌の文字は“バットマン”から“マッドマン(狂人)”になっていた。

とある日、悲惨な爆発事件の映像を解析している時のこと、テリーが突然に笑い出した。「何を笑っている」とブルースが睨みつけたが、テリーは笑いすぎて溢れてきた目尻の涙を拭いながら、なおも笑い続けた。
「いや、だって…こんなに軽く吹っ飛ぶなんて。人形みたいだなぁて思って!」
ブルースが怒鳴った。

その晩、静寂の中眠りについていたブルースは、部屋の扉が開かれる音とベッドが軋む振動に気が付き目覚めた。それが誰かはわかっていたが、相手をするつもりは毛頭なかった。
「ねぇ、起きてるんでしょ?ブルース、ねってば」
「ごめんなさい…許して…どうかしてた、ねぇ、ブルースってば」「俺のこと嫌いなっちゃったりしてないよね?そんなことないよね?」「お願い、なんか言ってよ!ブルース、ねぇ、嫌だ、嫌わないで!ブルース!!」「え、どうしよう…ブルース…ごめん…ごめんなさい、ごめんなさいっ、ごめんなさいッ!!ブルースっ!!!」
徐々にヒステリックになっていく声色に、ブルースは薄らと目を開けた。途端テリーが「良かった」と声を震わし抱きついてきた。
「テリー…あの件は許せることじゃない」
「もうあんなこと言わないからっ、約束するから、嫌いになったりしないで!バットマン活動頑張るから、もうあんな映像見なくて済む様、俺、頑張るから、だから…嫌いにならないでよ。もう嫌いになっちゃった?もうだめ?嫌だ、ブルース、いや」
抱き締めてくるテリーの強さは徐々に増し、骨が軋むほどの圧迫にブルースは息苦しさを覚えた。
「落ちつけ。嫌いになったわけじゃない」
潤む瞳を押し付けられ仕方がなく青年の頭を撫でれば、テリーはむずがる子供のように擦り寄ってきた。
「俺、うざい?いなくなった方がブルースも嬉しい?」
「いいや」
「俺が死んだら悲しんでくれる?」
「あぁ………私も後を追うだろうな」
それは真実だった。テリーが肩を震わせ、しゃっくりを堪えるようにして泣いた。しばらくして「…俺は必要?」という問いに、ブルースは肯定の返事をした。

翌日から、テリーの不謹慎な言動は一切みられなくなった。一時的なものだったのだろうとブルースは思ったが、テリーの中身は全く変わっていなかった。ただそれを表に出さなくなっただけで、彼は悲惨なニュースを見ても、街中で被害者を見ても別段なんとも思わなかった。
いつかは皆死ぬのに自分はなぜこんな不毛なことをしているのか、自分の行っている事になんの意味があるのか…そんな疑問も徐々に湧かなくなった。助けた子供に感謝の言葉を言われても右から左へ流れた。テリーが生きる上で何の足しにもならないソレなどどうでもよかった。ただブルースに褒めて欲しいが為だけにバットマンを続けていた。ボスが望むのであれば、人を救うことも殺すこともテリーにとっては大差無かった。



テリーがバットマンを初めてから今日に至る中で、今回の事件は世界戦争を引き起こしかねない最も危険なものだった。ゴッサム市警本部長からの極秘の機密情報は、核弾頭をゴッサムに落とし戦争のきっかけにしようと考えている他国の指導者がいるというものだった。表だって動けばすぐにでも核を飛ばされかねない状況に、ゴッサム市警は一歩も動けなかった。交渉の余地があればまだ良かったが、敵の目的は戦争であり、資源や金でどうにかなる事ではなかった。他国にある軍事施設に侵入し、核弾頭の発射を阻止することがテリーに課された任務だった。

国際戦争に繋がる重い責務に、ブルースの方が協力に難色を示した。時間の猶予がないと迫るバーバラに対し、少しだけ待って欲しいと返答をしブルースは通信を切った。その様子を背後から見ていた青年は、静かにブルースに近付いた。

テリーはモニターを真剣に見つめるブルースの横顔を見詰めた。通った鼻筋に、尖った耳先、斜度の鋭い目尻、やや筋張った首筋、ブルースを形作る線は美しかった。額縁に押し込めておきたいと何度思ったことか。
ライトに照らされ浮かびあがった輪郭の一部、喉仏には小さな噛み跡があり、同じような痕跡が首の付け根にもあった。いずれもセックスの時にテリーがつけた歯型であり、最近の癖だった。
「昨日、デーナに寄りを戻したいって言われた」
「…そうか」
「NOって答えた」
「そうか」
「嬉しい?」
「……いや、正直…複雑だ」
伏せられたブルースの睫を眺め、テリーは胸が熱くなった。心を垣間見れた気がした。愛おしさを込め、自分のつけた跡をなぞればブルースの肩がびくりと震え、青年の指をやんわりと掴んだ。モニターに映る軍事施設の内部映像を消し、ブルースはテリーに向き直った。
「やらなくてもいい」
「いや、俺やるよ。だってブルースをゴッサムと心中させるわけにはいかないでしょ」
ブルースは視線をテリーから外すと、苦しそうに顔を歪めた。
「……この任務が終わったら母親の所へ帰れ」
「…え…?な、んで…」
「ずっとここにいるつもりか?お前の居場所はここではない。お前には、お前を想ってくれる多くの人がいる。意固地になって私に固執すべきでない」
「固執?そんなんじゃない。俺はブルースを好きで、だからっ」
「テリーよく聞け。今まで言わなかったが…私にはお前しかいない。お前が私を想う以上に、私はお前を愛している」
「だったら、」
「だからお前を…こんな私の元で潰したくない。私といる限りお前はこれからも辛い任を負う羽目になる。過去のロビン達がそうだった。わかるな?」
テリーは顔を伏せ、押し黙っていた。その表情を窺う様にブルースが覗き込んだ。
「テリー?私は…お前の幸せを一番に願っている」
「わかった」
突然、テリーは椅子の横に掛けてあった杖を真っ二つに折ると床に投げ捨てた。驚愕に目を見開き固まっているブルースに対して、青年は無表情だった。彼は無理矢理ブルースを抱きかかえるとケイブに備えられている核シェルターのボックスに投げ込んだ。突然の出来事から立ち直ったブルースが喚く言葉はシェルターの分厚い扉を閉じれば一切聞こえなくなった。

ケイブを出る間際、テリーの元にエースが駆け寄って来た。エースはくぅんと鼻を鳴らすとテリーの足元に頭を擦り付けた。
「悪いなエース…、お前も来るか?」
エースは哀しそうな眼差しでテリーから離れるとシェルターの前に腰を下ろした。
「さよなら」
その言葉に返答するかのようにエースが鼻で鳴いた。



テリーは軍事施設に入ると地下にある司令室に向け歩みを進めた。目に入る全ての敵を殺した。通常の10倍のパワー増幅がなされているスーツで飛び蹴れば、首が折れ、目が飛び出し、肉が弾けた。人に対して向けた事の無かった銃の引き金は、想像よりも重くはなかった。指一本動かすだけで、意図も容易く人間は血を噴いた。便利の一言だった。痙攣し、噴水のように心臓から血を噴き出している屍を踏み越えテリーは突き進んだ。相手の生命に気をかけず戦う事は、これほどにまで楽なのかと感動すら覚えた。今やテリーは自由で、そして強かった。
返り血の滴るバットスーツは真っ赤な道程を作り上げ、転がる無残な死体が彩りを加えていた。それを見た兵士たちは次第に戦闘意欲をなくしていった。人の形をなしていない蝙蝠の化身は、狂気の塊だった。

司令室は地獄絵図のような光景だった。
恐ろしい侵入者を迎え撃とうとビーム光線が飛び交った。壊れたコンピューターがばちばちと火花を放ち、煙が沸いた。まるで異世界の者のように黒い塊は飛びまわり視界の悪い中での乱戦となった。誤発した光線は仲間同士を撃ち合わせ、黒い塊から放たれる攻撃は的確に命を奪っていった。脳髄が飛び散り、内臓が零れ、いつしか銃声は止み、数名の呻き声だけが残された。
煙が薄らいだそこにはテリーしか立っていなかった。その手にはボスの頭だけが握られ、切断された首からは筋が数本垂れ下り、そこからぼたぼたと血が垂れていた。
呻いている兵士のすぐ傍にそれを投げ捨て、テリーはメインコンピューターの前に立った。開いたケースの中にある赤いボタンは、昔観た映画とそっくりでテリーは少し笑った。モニターには赤い数値で、発射まであと1時間と数分が映し出されていた。発射解除の12コードを打ちこみ始め、最後の1つで手を止めた。コンピューターが『発射まであと一時間を切りました』と告げた。テリーは無表情のまま指先の方向を変えると何の躊躇いもなく指を押し込んだ。
『緊急発射を受理しました。発射まであと3秒』

その日、母は、テリーが子供の頃に大好きだったアップルパイを数年ぶりに焼いていた。弟はクレヨンで手を汚しながら兄の似顔絵と、大好きなヒーローである黒いバットマンを描いていた。マックスは新型スーツの図案を考えたとテリーにメールを送信したばかりだった。デーナは窓を見上げ、元恋人から貰ったネックレスを片手にまだ好きな男の事を思い返していた。

青白い光が降り注ぎ、次の瞬間、その全てが消えた。

テリーの瞳に炎が揺らいでいた。モニターに映し出されているゴッサムは紅黒く燃え上がっていた。何もかもが炭のようで、行き馴れた学校も、家族の住むマンションも、友人のマンションも、彼女の家も、通い慣れた屋敷も全てがみな一様にただの屑になり、どこに何があったのかわからないほどだった。

基地を出てゴッサムがあった場所に戻れば、辺りは人工物も自然物も何もないただの赤黒い大地が広がり、空は禍禍しいスモッグに覆われていた。抽象絵画に紛れ込んだようなその中を、テリーはただただ歩いた。



重苦しい音を立て、シェルターの扉が開かれた。降り注ぐ太陽の光にブルースは目を覆った。
「…大丈夫だった?」
「あぁ、お前はどうだ?」
「最高だよ」
テリーの声のトーンが異様なことに気付きブルースはゆっくりと目を開け驚愕した。ケイブの上空はポカリと穴が空き、屋敷は消えていた。信じられない状況に困惑しながら地上に出たブルースは、更に衝撃を受けた。
ゴッサムが、無かった。
「エース…」
愛犬の名前を呼ぶも駆け寄ってくるものはいなかった。むなしく響いただけのそれにブルースは目をきつく閉じた。ただの広い空間となった世界を見渡し、テリーが腹を抱えて笑った。
「間に…合わなかったのか…?」
ブルースは最悪の事態を想像した。核発射に間に合わなかったテリーが、己の責任を感じて壊れてしまったと。家族を友人を恋人を……彼を形作るはずだった未来を全て失ってしまったのだ。
ブルースは笑い続けるテリーの頬に触れ、精一杯の慈愛を込めた視線を送った。
「テリー、お前のせいじゃない。お前は悪くない」
ブルースがテリーを抱き締めた。テリーはその腰を強く抱くと、笑い声を噛み殺すように背中を震わせた。
「ようやく未来ってのを手に入れた」
場に不釣り合いな楽しげな声とその発言にブルースは眉根を寄せた。テリーの表情を伺おうと少し離れた彼は、突然押し飛ばされ地面に尻をついた。逆光を背にしたテリーが唇が裂けそうな程の笑みを浮かべ見下ろしていた。
「俺、今日から 」




2017/2/10 ―今日から化け物になった―


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